阪神は初回、森下翔太のソロホームランで先制。そのまま迎えた5回表には、坂本誠志郎の適時二塁打や伊藤将司のセフティスクイズなどで一挙4点を追加し、試合の主導権を握った。
会社を辞めたばかりの近藤力也(48)は、蒸し暑い神宮球場のスタンドで、元取引先の男・光村良太と再会する。
ホワイトニングを施し、黒いTシャツを着こなしても、胸に残るのは“自分の言葉で誰かを傷つけたかもしれない”という葛藤。
話さなければ問題は起きないという光村と、笑ってもらいたくて口を開く近藤。
そんなふたりが、阪神の快勝劇を前に交わす、静かで滑稽で、どこか沁みる会話とは——。
ホワイト〜阪神タイガース観戦記2025年6月29日〜
6月29日(土)、東京・神宮球場。
昨日に続いて、今日もここにいた。
蒸し暑さが、空気を鈍くしていた。
「いやあ、これやから関東の夏はキツいねん」
近藤力也・48歳。大阪育ち、東京で社会人になって26年。
2ヶ月前に会社を辞めてから、することといえば野球観戦くらいだった。ハラスメント、と言われた。「そんなつもりなかった」が通じない時代。”時代に合わせる”ことに遅れた代償だった。
時間だけはたっぷりあった。朝は早く目が覚めるけど、起きたって特にすることもない。ニュースをつけると、前の会社のCMが流れることがある。そういう日はテレビをすぐ消す。
昼間の街を歩いていると、みんなが働いているように見えた。近所の定食屋で「今日はお休みですか?」と聞かれて、「まあ、ちょっとだけね」と曖昧に返した。
家にいても、考えることといえば——
「このまま何もしないわけにはいかんな」
そんな自問ばかりだった。
「で、迷った挙句、ホワイトニングか」
隣で光村良太が、面白そうに笑った。
東京生まれ、近藤とは同世代の47歳。元得意先であり、今は気兼ねなく話せる阪神仲間だ。パッケージデザインの仕事で何度も打ち合わせを重ねたが、今となっては野球談義で盛り上がる貴重な相手だった。
「いや、歯ぐらい白くしてもええやろ。清潔感、大事や」
昨日も同じ神宮で阪神の試合を見た。久しぶりに会った元部下と一緒に。別れ際に言われた言葉が、まだ耳に残っている。
「歯、白くしすぎないほうがいいですよ」
冗談のつもりかもしれんけど、妙に刺さった。
白い歯。高かった。アル○ーニの黒Tも高かった。でも、それらが何かを変えるわけでもなかった。自分だけが空回ってる気がした。
「で、今は毎日どうしてんの」
「いや、とりあえず急やったしな。しばらくは野球見て、考えよかなと」
「考えてるような顔じゃねえけどな。焼けてるし」
「焼けるわこの暑さ。あと、ちょっと肌黒い方が歯、映えるしな」
光村は、声をあげて笑った。
——笑われることは嫌いじゃない。
でも、会社では自分の”軽口”が、誰かを傷つけたらしい。
「お前、部下とちゃんと話してんの?」
「話さないよ」
「え?」
「誕生日も趣味も知らない。名前と部署と数字だけ」
「それ、クール超えて冷たない?」
「俺が口開くと、ろくなこと言わないから」
光村は、静かに笑った。
「でもそれで、誰にも文句言われたことないよ」
なるほど。
話さなければ、問題も起きない。
関わらなければ、傷つけることもない。
でも——
「俺、そういうの、できへんわ」
小学生の頃から、笑かすのが好きやった。
みんなが静かになってるとき、何か言って空気を和らげた。
営業になったのも、その延長や。
けど今は、時代が違う。
“そのつもりはなかった”じゃ済まされない。
自分の言葉が、誰かの心に刺さってるかもしれない。
「でも、誰も教えてくれへんかったんや」
「どこまでがOKで、どこからがアウトか」
“おもろい”だけじゃ、もう通用せんのか。
それでも——
もう一回くらい、人前に出たい。
もう一回くらい、ちゃんと喋りたい。
スタンドには、13時半の試合開始に向けて集まった阪神ファンの声援がはやくも響く。
湿気と熱気とアルコールのにおい。あと気になるのは自分の香水がやや鼻につく。もしかして量を間違えてるのか。
6月最後の日曜日。神宮球場の空気は、それだけで酔いそうだった。
初回、2アウトから森下の打球がレフトスタンドに突き刺さった。
「ほらみろ!森下打ったわ!!」
近藤が声を張る。声のボリュームは周囲の比ではない。
「別にお前の手柄じゃないよ」
光村は唐揚げをつまみながら冷静だ。
けど、暑すぎるこんな日の午後に先制点は、それだけでありがたい。
応援にもさらに熱が入るというものだ。
その裏、伊藤将司がいきなりのピンチを招く。
赤羽のヒット、オスナへの四球——
「うわ、追いつかれるん早ないか?」
そう思った瞬間、伊藤の鋭い牽制が一塁ランナーを刺す。
「最近よう決まるよなあ、牽制」
なんにせよ、初回の立ち上がりを無失点で切り抜けた。
2回から4回まで両軍無得点。調子を戻したヤクルトの先発右腕アビラと伊藤の譲らない投げ合いが続く。湿気が皮膚にまとわりつく中、両投手の投球テンポとビールだけがペースを上げていく。
そして5回表。
先頭の大山、続く前川が連打。
「お、つながったつながった!」
近藤がひとりで実況を始めた。
光村はもう応援というより、そんな近藤の、実況と解説のバランスを楽しんでいるらしい。
「前川くん、レフト固定でもええと思わんか?テルの三塁守備、やっぱりハマってるけど」
「俺、そもそもサードの価値がよくわかってないから」
光村の返しに、近藤はひと呼吸おいてから「やっぱお前とは熱量が合わんな」と笑った。
そして坂本のセンターフェンス直撃の2塁打が飛び出して待望の追加点。
さらに、伊藤のセフティスクイズで相手のミスを誘ってもう2点が入る。神宮が、暑さを忘れる歓声に包まれた。
ヤクルトの中継ぎ陣が踏ん張り、そのまま迎えた8回表、代わったヤクルトの4番手・丸山から佐藤がライトスタンドへの豪快なホームランを放つ。
打球が空を割った瞬間、近藤は黙ったまま打球の軌道を見つめていた。
まるでその一撃が、自分の中に残るモヤモヤを吹き飛ばしてくれるのを期待するように。
9回裏。
伊藤がマウンドに上がる。
「すごいよな伊藤。今日ほとんどヒット打たれてないよ」
「というか2回から2塁も踏ませてへんやん」
「二軍でも苦しそうだったのになんでこんなにいいの?」
「……技術的なことは俺もわからん。ストレートが戻ったのか。制球が戻ったのか。ただな、こういうピッチング見せられると、また俺ももう一回、どっかで頑張りたくなるねん」
光村は、少し間を置いてから、近藤の横顔をじっと見つめた。そして静かに頷いた。
「そうだな。お前らしいよ、それ」
そして伊藤は、9回を投げ切り、見事2安打完封。
試合は6−0。
阪神の完勝劇に、近藤は光村と並んで拍手を送った。
掌にはベットリと汗が滲んでいた。
試合が終わってもスタンドの熱気は、収まらない。
太陽は雲に隠れているのに、汗が止まらなかった。
光村が、何杯目かわからないビールを美味そうに飲みながら言う。
「明日、何すんの」
「え?」
「月曜でしょ。試合もないし」
近藤は、ちょっと口ごもった。
「……まあ、ちょっと、予約入れてんねん」
「へえ。何の?」
「……脱毛」
光村が吹き出した。
「お前さ、ほんと最高だな」
「やかましいわ」
「まあでも、動き出したのはいいことだよ。お前なら、またどっかでちゃんと働けるって」
「……ありがとう。実はな、再来週ちょっと面接入れてんねん」
「そうこなくっちゃ」
光村の笑顔が眩しくてありがたい。
笑われるのは、嫌じゃなかった。
この笑いが、誰かを傷つけていないなら——
それでいいと思えた。
まだ何色にも染まっていない明日が、そこにある気がした。
人生は続く。
たとえ白い歯とすべすべの手だけが自分の証として残っても。
近藤は光村のカップに乾杯し、夕暮れに染まりかけた神宮の空を見上げた。
【今日のスコア】
ヤクルト 0-6 阪神 @神宮球場
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