SaaS企業で働く32歳の太田可奈。
通勤電車とSlackの赤マークに追われる毎日のなか、数年ぶりに夫と訪れた甲子園。
阪神は木浪の同点打で追いつくも、9回に岩崎が失点し敗戦。
でも、ファンタの味が一瞬わからなくなるほど夢中になれたあの一打が、
可奈の心に、小さな余白を残してくれた。
ファンタの味が思い出せない 〜阪神タイガース観戦記 2025年5月16日
「あ、今日やんな。試合」
化粧ポーチ片手に言うと、夫はすでに阪神のTシャツ着て、リビングでプロテイン飲んでた。
「デーゲームちゃうよ? まだ7時半やで?」
兵庫県の宝塚から大阪・本町まで、毎朝ぎゅうぎゅうの通勤電車。
座れることなんてほぼ奇跡。今日も資料修正をスマホで見ながら、
「午後イチの打ち合わせ、また仕様変わってんちゃうか」とか、心で毒づく。
わたしはSaaS系のIT企業で法人営業をやってる。
中小企業に「御社のDXを加速させましょう!」言うて、
蓋開けたらエクセルとFAXの世界に投げ込まれる。
正直、そこまで嫌じゃない。慣れたし、数字もそこそこ。
ただ、「この仕事って、誰の“ありがとう”で成立してんのかな」って思うときがある。
それでも今夜は甲子園。数年ぶりに、夫と二人で。
根っからの虎党の夫の、そのノリに、出会った頃はちゃんと乗れてた気がする。
今は…どうなんやろな。まあ、とりあえず定時で出られるように頑張ろ。
本町から心斎橋、梅田で夫と合流してから阪神電車。夕方の混み具合と、
夫の「今日も村上は完封いくで!」ってテンションが地味に重なる。
わたしは仕事の日中のやりとりが、頭から離れへん。
資料に入れた“コスト比較”のグラフ、営業マネージャーに
「お客さんに数字見せすぎるのは逆効果」って言われて、
え、じゃあ提案の意味は?ってなるやつ。
営業って、「言わなさすぎてもダメ、言いすぎてもダメ」みたいなとこある。
結局、何が正解かなんて後出しジャンケンでしかわからん。
夫に目をやると、スマホでスタメン確認してニヤニヤしてる。
「お、前川やん」「今日は木浪がキーマンやな」とか言うてるけど、
わたしの頭ん中は、Slackの“赤マーク”が3つついてるのが気になってしゃあない。
昔はその熱量がうらやましかったけど、最近はちょっと疲れる。
でも、たまに思う。
もしかして、わたしのこの温度の低さって、
この人と暮らし始めてから、じわじわ身についたもんなんちゃうかって。
試合は初回に、あっさり先制された。
村上がいきなりホームランを浴びて、結局1回表に2失点。
夫は「まだいける、まだいける」って言うてるけど、
その声に「せやな」って返す気力は、あんまりなかった。
中盤は、ずっと重たかった。
打線は沈黙。
カープのエース、森下の前に、淡々と凡退が続く。
ヒットも出えへんし、塁にも出られへん。
なんやろな、
みんな、打席でひとりぼっちに見えるというか。
そんな試合展開のなか、わたしはさっき買ったファンタを手にしてた。
なんとなく口をつけたけど、味がしたかどうか、正直わからんかった。
7回裏。
佐藤・大山・前川の連打で球場が揺れる。
ようやく。ようやく、何かが動いた。
「うおー!来た来た来た!」
夫がビールをこぼして、隣の席のおじさんと肩を叩き合ってる。
「打線ってこういうことやなあ」と、誰にともなく言うてる。
わたしも夢中で拍手してた。
気づいたら、ちょっと前のめりになりながら。
坂本が送りバントを決めて、木浪くんが打席に立つ。
「代打ちゃうんか?」とまたブツブツ言い出す夫。
そのとき、わたしの目はずっと打席の木浪くんに釘付けやった。
久しぶりの甲子園スタメン。重圧はきっと感じてたはずやし。
木浪くん、初球をセンター前へ。
「木浪あああ!信じてたでー!」
…信じてたって、あんたさっきまでブツブツ言ってたやん。
と、内心つっこみながらも、
わたしは1塁上で笑顔を見せる木浪くんに、小さく「よかった」と呟いた。
気づいたら、ファンタをまた口にしてた。
味は……やっぱり、わからなかった。
炭酸の刺激だけが、喉の奥に心地よかった。
結局追加点は奪えない。なんかこういう場面、数日前にも見た気がする。
緊張感を持ったままの9回表。
守護神、岩崎が連打を浴びて、あっという間に2失点。
球場の空気が、スーッと冷えた。
さっきまで「逆転あるで!」って盛り上がってた一塁側が、
今は咳払いすら聞こえるような静けさ。
そして9回裏。最後の攻撃。
テル、大山、前川。
3人で、終わった。
夫は「点取れへんチームやなあ」「岩崎の使い方やろ」と、
隣の阪神ファンと総括を始めてる。
わたしはというと、さっきまでのファンタが空っぽになってたことに、
やっと気づいた。
帰り道、夫が自販機でまたファンタを買ってきた。
「ほら、1人1本な」って言いながら、自分の分だけキャップを開けてる。
家までの道を並んで歩く。
「ちょっと、一口だけちょうだい」
わたしはそう言って、ファンタのペットボトルを奪いとった。
……うん、ちゃんと、いつもの味やった。
試合には負けたし、明日もきっとSlackは赤いままやけど。
あのとき味がわからなかったのは、
夢中で、息をするみたいに木浪くんを見てたからやと思う。
ファンタがファンタの味で戻ってきたことが、
なんや、それだけで、クスッと笑えた。
【今日のスコア】
阪神 2 – 4 広島(2025年5月16日/甲子園)
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