2025年6月6日、甲子園で行われた阪神vsオリックスの交流戦は、両軍無得点のまま延長十回へ突入。最後は木浪聖也のサヨナラ打で阪神が1-0で勝利を収めた。石井大智の負傷退場というアクシデントも乗り越え、村上・湯浅・桐敷の継投で守りきった劇的な一戦となった。
そんな一夜に、石川梓は観客としてそこにいた。
薬局で働く彼女にとって、その時間は“処方外”の特別なものだった。
ただ観ただけ。でも、それがじわじわと効いてくる何かになった。
私の処方箋 〜阪神タイガース観戦記 2025年6月6日〜
「はい、湿布は二週間分。胃薬と、痛み止めも入ってます」
処方箋を確認しながら、石川梓はプリンタの音に耳だけ傾けた。 患者の頷き方も、返ってくる言葉も、もう体が覚えてる。
金曜午後、ドラッグストアの奥。白衣の背中には薬品の匂い。 昼休憩は10分。冷やしうどんを流し込んで、レジ横で買ったラムネをひとつだけ口に入れた。
カウンターの向こうには、いつもの列。膨らみすぎたふくらはぎをかばいながら、梓は笑いかける。
「これ飲んだら、きっと楽になりますよ」
毎日のようにそう言っている。でも、自分に効いた薬は、まだ見つかっていない。
それでも、今日だけはちがう。
白衣を脱ぐ時間をぴったりに合わせ、ロッカーを開ける。 中にあるのは、朝に畳み直して持ってきたユニフォーム。2022年の近本モデル。 カバンに入れるとき、少しだけ深呼吸した。
お金を削って、体力も削って、でもこの日だけは絶対に削らなかった。
──今日の処方は、自分で選んだ。
阪神電車の窓に、今日の顔が映った。 眉間にうっすら力が入っていて、口元は少し緩んでいた。
梅田で乗り換え、甲子園駅。
ホームに降りた瞬間、むわっとした熱気と人の気配が、肌にまとわりついた。
でも今日は、それすら心地よかった。
缶ビール片手の会社員、グッズを首から下げた親子。 それぞれの「理由」が集まって、今日の甲子園ができていく。 その中に、自分もいる。それだけで、少し整う。
売店で水を一本。いつもなら誰かの分も手に取るけど、今日は自分の分だけ。 ──たまには、ひとりで観戦する日もあっていい。
階段を上がる。照明が空に浮かび、芝がきれいに刈られている。 一歩ごとに、胸の奥がほどけていく。
──ここに来たかったんや。
声にはしないけれど、その足取りがすべてを物語っていた。 ひとりきり。でも、確かにここにいる。
ここで吸った空気が、張り詰めていた何かをほどいていく。
──じわじわと、静かに。
試合は三回。両先発のテンポの良い投球とは裏腹に、一塁側のアルプスにゆっくりと風が流れていく。 でも、梓の胸の奥では、ずっと蓋をしてきた思いが、静かに動き出していた。
──私は、ずっと自分を後回しにしてきたんや。
レジに立つ。薬を渡す。休まず働く。 気づけば、「どうしたいか」より「どうあるべきか」ばかり選んでいた。 制服のポケットに残るメモの数だけ、誰かのための毎日だった。
でも今日だけは── このスタンドにいる自分を、誰のためでもなく肯定したかった。
即効性のある薬も、痛みを止める処方も必要ない。 いま欲しいのは、じんわりと効いて、少しずつ楽にしてくれる時間。
今日はただ、ここにいてよかった。
それだけで、明日を少し楽にする“何か”になった気がする。
七回表には、今日一軍復帰した小幡のグラブが光った。 強い打球をつかみ、素早く二塁へ。 そこからのダブルプレーに、スタンドが大きく揺れた。
拍手が広がる中、梓は静かにその光景を見つめていた。 ──今日が、まだ終わっていないと強く思えた。
九回。マウンドに上がった石井の頭に強烈な打球が直撃した。 誰かが叫び、ざわめきが一気に広がる。 でも梓は動けなかった。
ただ、そこにいただけだった。凍りついたのは体じゃなく、いつもの“対応”の癖だった。
薬局で、患者の異変に気づいたときと同じだった。 「対応しなきゃ」と動く前に、頭より先に心が止まってしまう。
緊急登板の湯浅がマウンドに立ち、ゼロをつないだ。 桐敷も踏ん張った。 バトンが落ちかけるたび、それを拾う誰かがいた。 ──それが、今日の阪神の野球だった。
延長十回裏。佐藤が出塁。大山がヒットでつなぎ、小幡が送った。 坂本は歩かされ、満塁。
打席では木浪がバットを構える。
確かに意志のある打球が一塁線を破った。球場の空気が爆発した。 梓の肩に何かが触れた。
誰かの手か、タオルか。 それすら分からなかった。ただ、熱狂だけが伝わってきた。
阪神のサヨナラ勝ちで試合は終わった。 隣の席の誰かがガッツポーズしている。 梓もつられるように立ち上がり、大きく声を出した。
ベンチに座り直した時、おしりにじんわり熱が戻ってくるのを感じた。
カバンの中で、ラムネの包みが指に触れる。 昼休みに噛んだ、それ一粒ぶんの元気が、今もまだ、どこかに残っている気がする。
明日は仕事。たぶんまた肩も脚もパンパン。 でも、今日ここにいたことは、飲み薬や漢方では得られない力をくれた。
人並みの中、出口へと向かう足をふと、止める。 今日の自分が座っていたあの場所を、もう一度だけ振り返った。
この最高の夜が、私の処方箋。 ──効き目は、じわじわ。副作用は、なし。
【本日のスコア】
阪神 1 – 0 オリックス(延長10回サヨナラ勝ち)
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