放課後に、教わったこと。
それは、正しさを教えることではなく──
心が動いた瞬間に、ちゃんと立ち会うことだった。
放課後に教わったこと 〜阪神タイガース観戦記 2025年5月29日〜
朝の職員室は、少し静かだった。
黒川由里が思い出していたのは、あのとき自分が言った「行きます」という一言だった。
たしかにそう言った。でも、その声には、自分でもうまく言葉にできない“迷い”のようなものが含まれていた気がしていた。
黒川由里、38歳。尼崎市の中学校で国語を教えている。
今日は授業を終えたあと、甲子園へ向かう。
先週の放課後。修学旅行の打ち合わせが終わったとき、旅行会社の朝井希(のぞみ)がふいに口を開いた。
「先生、来週の水曜って、ご予定空いてたりしますか? お父さんと行く予定だったんですけど、急な出張でダメになって…甲子園のチケットが余ってて」
由里はそのとき、即答していた。
「行きます」と。理由を考えるより早く、口が動いていた。
彼女は26歳。年齢差はあるはずなのに、最初から不思議と距離を感じなかった。
言葉選びが丁寧で、でも媚びたところがない。話す内容も、会話のリズムも自然だった。
誘われたことも、それを受けた自分も、どこか予定外だった。
けれど、その流れに少し身を任せてみたくなったのも、嘘ではなかった。
授業中、黒板に例文を書いていたとき。ふと、既視感に襲われた。
ファイルを確認すると、3年前と全く同じ例文を使っていた。
国語の文法はそう変わらない。だから同じ内容になるのは当然だ。
でも、自分の言葉まで止まっていたみたいで、背中がひやりとした。
「これ、テストに出ますか?」
「何行目から書いたらいいですか?」
生徒からの質問も、どこか型通りに感じられた。
“思ったことを言う”より、“正解を探す”ことが教室の正義になりつつある。
それは、きっと自分や学校が、“正しさ”で言葉を評価してきたからだ。
昔はもっと、やかましくて熱のある教室だった。
「先生、これは好みじゃないやつですよね?」なんて、余計なことを言われて笑ったりもしていた。
それが、“温度”だったのだと思う。
いまの私は、“形式”を守ることに夢中で、自分の言葉を失っていたのかもしれない。
夕方、甲子園駅の改札を抜けた瞬間、風の匂いが変わった。
湿気を含んだ空気に、梅雨の気配を感じる。
スタンド入口で待っていた朝井は、制服のようなカーキの半袖シャツにデニム姿。
左手にはコンビニのアイスコーヒーを持っていた。
「先生、これ。ちょっと溶けちゃいましたけど、飲んでから行きましょ」
そのとき見えた笑顔と、左眉だけ少し上がる癖が印象に残った。
1塁側スタンド。春の陽射しがまだ残る中、すでに席は埋まりつつあった。
由里は息を吸い込みながら、ようやく日常から身体を切り離せた気がした。
2回表、門別がピンチを迎えた場面。無意識に息を止めていた。
「ケイって、日本に適応しましたよね」
横から飛んできた朝井のひと言。
バウワーやジャクソンの名前も、さらりと出てくる。
“ただの野球好き”じゃない。放課後に見た彼女の新しい一面だった。
観戦中の会話には、“どれだけ知っているか”を競う空気が漂うときがある。
でも彼女の言葉には、そういった“優位の匂い”が一切なかった。
それが、由里には新鮮だった。
5回表、踏ん張る門別の姿に、由里は思わずつぶやいた。
「ふう……息詰まりっぱなしやわ」
「むしろ、よく点取られてませんよ、この展開で」
朝井のその言葉に、由里は自然と笑っていた。
5回裏、先頭の木浪がヒット。
その瞬間、朝井は立ち上がるほどの勢いで身を乗り出した。
言葉にはしていなかったけれど、体全体が「ここ!」と叫んでいた。
その横で、由里はふと気づいた。
“教える側”にいた自分が、ただ“反応する側”にいることに。
誰かの言葉に対して、評価も説明もせず、ただ一緒に揺れるだけの時間。
それが、こんなに自由で心地いいとは思っていなかった。
代打・島田が意地の進塁打を放ち、続く近本のタイムリーで甲子園が沸いた。
「うわー、なんか逃さなかった感じするなあ」
「先生、点取れてよかったですね」
「ほんまやな……なんか……ありがとう」
ありがとう、という言葉が出たのは、点が入ったからじゃない。
目の前で誰かが心から楽しんでいる姿を見て、自分が“遠くから物事を見ようとしていた”ことに気づいたからだった。
試合はそのまま終盤へ。
7回、石井。8回、及川。いずれも先頭打者を出しながらも、無失点でつなぐ。
「なんか今日は、先頭打者出す縛りでもあるんですかね」
そう言って笑う朝井の言葉に、由里はまた笑っていた。
8回裏、テルが振り逃げで出塁し、大山が四球で続いた。
代打・糸原は三振に倒れたが、場内の熱は最後まで続いた。
9回表、岩崎が三者凡退で締めたとき、甲子園は大きく揺れた。
気づけば2人は顔を見合わせて、ハイタッチしていた。
近本の一打も、門別の粘投も、テルの全力疾走も──
どれも心が動いて、体が芯から熱くなっていた。
その感覚に、由里は驚いていた。
こんなにも素直に、自分の感情を差し出していい時間があるなんて。
帰りの人混みの中で、由里は口を開いた。
「……ねえ、今度、生徒に聞いてみようかな」
「ん? なにをですか?」
「最近、心が動いたことってある?──って」
「いいですね、それ」
「そやろ?」
放課後に教わったのは、問いの立て方ではなく、
心が動いたとき、素直にそれを受け取っていいということ。
正しさより、感じたままを抱きしめていいということだった。
教師という立場。
教える側であることに縛られて、すっかり忘れていたことだった。
【今日のスコア】 阪神 1−0 横浜 @阪神甲子園球場
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