退職届を出した日の夜、部屋の棚を整理していた。
リストラが名前をかえただけの早期希望退職。
42歳になった井坂誠一はふと、あのとき手放したグラブのことを思い出した。
高校野球をやっていた頃、毎日泥だらけになって使っていた相棒。
手元にはもうないけれど、あのときの感覚は、今でもちゃんと体に残ってる気がした。
あれから20年。
広告の世界で必死に働いて、走り続けてきた。
でも今は、肩の荷が降りるどころか、自分の中が空っぽみたいに感じる。
何をしたいのか、どこに向かえばいいのか。わからないまま、とりあえず日々をこなしていた。。
そんなときだった。チケットアプリに、3連戦最終日のチケットが残っているという表示が出たのは。
気づいたら購入していて、新幹線の予約までしていた。
広島まで来て、何を確かめようとしていたんだろう。
試合が始まるまでは、自分でもよくわからなかった。
気温10度、曇り空。
マツダスタジアムの外野席に座ったとき、グラウンドの芝の色がやけに深く見えた。
それだけで、少しだけ心が落ち着いた。
阪神の先発は門別。
去年から注目していた投手だったけど、4回裏、菊池の犠牲フライで1点を奪われる。
打たれたというより、淡々と点が入った感じ。
欲しい場面で確実に仕事をする──
ああいうプレーを見ると、胸がざわつく。
自分は会社で、あんなふうに結果を出せていたのか。
そういう問いが、じわじわと滲んでくる。
5回には田村にタイムリーを許し、2点差。
だけど門別も伊原も及川も、粘り強く投げていた。
球に気持ちが乗っていた。
誰も崩れないまま、静かに回は進んでいく。
阪神打線は、どうしても森を打てなかった。
森は去年から苦手な投手だ。
今日も、球に触れられる気すらしなかった。
7回までわずか1安打、迎えた8回表。
ようやくめぐってきた、ノーアウト一三塁の好機。
球場がざわめき出す。
この日初めて、スタンドに立つ人が増えた。
私も、思わず前のめりになった。
けど、そこからはあっけなかった。
外野フライと三振で、あっという間にツーアウト。
次の打者も相手の好守に阻まれ、チャンスは消えた。
その瞬間、スタンド全体がすぅっと静かになって、空気が少しだけ冷えた気がした。
誰も責めてなかったけど、誰も納得していなかった。
でも、私はなぜか心がざわざわしなかった。
それはたぶん、投げている若いピッチャーたちの姿が、思った以上に胸に残っていたからだ。
門別、伊原、及川。
誰も大声を上げたりしない。
誰かの期待に応えるために、ただ黙々と、でも絶対に折れずに、目の前の打者に向かっていく。
自分も、ああやって投げてた。高校時代のマウンド。
あの感覚はまだ、どこかにあると思った。
心の奥のほうに、小さく呼吸をするように。
試合はそのまま終わった。
0-2の完封負け。
でも、勝ち負けは今日に限って、どうでもよかった。
駅へ向かう帰り道。
観光客の会話や、ユニフォームを着た子どもの声が、ぽつぽつと背後に流れていく。
私はそれを背中で聞きながら、歩幅を少しだけ広げてみた。
今の自分は、空っぽでも悪くない。
ちゃんと揺れたし、感じられたし、何かを置いてくることもできた気がする。
それだけで今日は、来た意味があった。
【今日のスコア】
2025年3月30日(日)@マツダスタジアム
広島 2 – 0 阪神(勝利:森、敗戦:門別)
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