坂下裕太、小学6年生。お母さんと行ったゴールデンウィークの甲子園。試合には負けた。でも、帰り道のぼくの手には、もう“ただの道具”じゃないグローブが残っていた。
グローブのひみつ〜阪神タイガース観戦記 2025年5月4日
ゴールデンウィークのまんなか。朝の電車にのって、ぼくとお母さんは甲子園にきた。甲子園の駅から人がどっとおりて、ユニフォームをきた人たちが球場へと向かっていく。その流れに自分もいるのが嬉しくて、ぼくも今日だけは、ちょっとだけ胸をはって歩いた。
「ユウタ、チケット、大事に持っててよ」 「うん、わかってる」
お母さんは、お昼も夜も仕事をしてる。やすみの日に遊園地とかは行けないけど、ちょっと前、「今度のゴールデンウィーク、一日だけは休めそう」ってうれしそうに言ってくれた。その時にはもう、チケットを取ってくれてたんだって。
ぼくが野球をやりたいって言ったときも、「いいで。」ってすぐに言ってくれた。だけど、グローブを買ってもらった帰り道、お母さんのくつの底がすりきれてるのに気づいて、なんか胸の奥がチクリとしたのを覚えてる。
「おかあさん、ほんまにこれ買ってよかったん?」 「なに言ってんの。そのグローブが、ユウタにいちばん似合うと思ったんやで」
そのときは、うれしくてすぐにまっさらの黒いグローブを抱きしめた。でも、ほんまはちょっとだけ、自分にはもったいないような気もしてた。
今日は、そのグローブを持ってきた。なんか一緒に阪神の試合を見せたかった。
甲子園球場では、五月のこいのぼりみたいに、応援の声も大きく揺れていた。
先発はルーキーの伊原。ヤクルトのピッチャーはベテランの石川。
「伊原くん見れるのうれしいなあ、ユウタ」 「うん。そんなに背が高くないのに、プロでちゃんと通用してるねんで。」
一方ヤクルトの石川ってピッチャーは、もう20年以上プロにいて、阪神にはやたら強い。ちょっとイヤな予感もしてた。
だけど、4回。森下がレフトスタンドにボールを打ちこんだ。
「ユウタ!!見てた? 森下くん、やったな!」 「見た見た! めっちゃうれしい!」
ずっと見たかった森下が、ホームベースをふんでチームメイトと手をたたいてる。
……ぼくも、ああなりたい。あんなふうに、仲間とよろこべる野球がしたい。
ところが試合は、すこしずつ流れが変わっていった。7回、伊原がピンチになって、ヤクルトに3点をとられた。球場の空気が、ちょっと重くなる。でも、ここは甲子園や。みんなの声は、まだまだ止まなかった。
7回裏。阪神はチャンスをつくって、ツーアウト1・3塁。打席には、また森下が立っていた。
ぼくの左手は、いつのまにか、グローブをはめたまま汗でべたべたになってた。テストの前よりも、自分が少年野球の試合ではじめてピッチャーをやったときよりも、ドキドキしてた。
森下の打席は、セカンドゴロ。がっかりしたけど、なんでやろう、次は打ってくれるとすぐ思えた。
それでも9回。あと一人出れば森下にまた回ってくる、ってとこで試合終了。
「おしかったなあ。明日からリベンジロードやな。」 お母さんは、ぼくの顔をのぞきこんで、ちょっと笑った。
駅に向かう途中も、ぼくは黒いグローブをはめたまま歩いてた。
伊原も、森下も、プロやからって、ぜんぶうまくいってるわけじゃないんやな。 それでも、きょうみたいに、またマウンドに立ったり、打席に立ったりしてて、なんかすごい。
きっと、やめへんかったからや。 そのうち、ぼくにも、そんな日がくるかもしれへん。
グローブを買ってくれたお母さんが、笑ってくれたあのとき、なんだかすごくうれしかった。 だから、もっと上手くなりたいって、はじめてちゃんと思えた。 このグローブは、もう“もったいない”なんかじゃない。 ぼくにとって、いちばん大事なグローブや。
いつか、自信をもって、胸を張って言えるようになりたい。 お母さんが買ってくれた「これが、ぼくのグローブです」って。
【本日のスコア】
阪神2-5ヤクルト(2025年5月4日@甲子園)
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