楽天モバイルパークで行われた交流戦、阪神はルーキー伊原の好投も実らず、延長12回裏にサヨナラを喫し、連敗は6に。
そのスタンドには、ひとりの町中華の料理人がいた。鍋を振る手に重ねるように、マウンドで腕を振り続けた若き投手たちを見つめながら、彼は人生のもうひとつの「勝負」を思っていた——。
中華鍋は置かない 〜阪神タイガース観戦記 2025年6月15日〜
中華鍋を握る左腕に、最近ほんの少しだけ筋肉がついてきた気がする。 ——鏡で確かめるほどじゃない。でも、鍋の重さが前よりもしっくりくるようになったのは確かだった。
東京・小岩。駅から商店街を抜けた先の路地にある町中華。 赤い看板、年季の入った暖簾。 「チャーシューがやたらデカい炒飯」で地元に知られていて、昼どきはサラリーマンが列をつくる。
高木直人は、ここの厨房に立っている。大学時代のバイトが、そのまま仕事になった。親父さん(=店主)と奥さん、ホールのパートさん2人。たったそれだけの店。毎日が顔の見える仕事で、やることも大きくは変わらない。けれど、居心地はいい。親父さんは寡黙だが面倒見がよく、時々新メニューの試作も任せてくれる。その時間が結構楽しい。
最近、よく考えるようになった。
——このまま、ずっとこの店で鍋を振っていくんだろうか。
——もし自分で店を出すとしたら、どんな場所で、どんな味を出したいんだろう。
佐々木さんは、店の常連であり、阪神ファン仲間だ。
何年も前から、年に数回は一緒に観戦に出かけている。
気が置けない相手だ。けれど、その話をしたことは、まだない。
そして今日が、そのうちの一日。6月15日。交流戦も中盤、舞台は仙台・楽天モバイルパーク。
チケットは発売開始と同時に佐々木さんが即予約してくれた。この日をずっと楽しみにしてきた。
東京駅・八重洲中央口。 混雑の向こうから現れた佐々木さんは、黒いキャップを目深にかぶっていた。 目元が、妙にむくんでいる。
「泥沼だよ、5連敗」 挨拶もそこそこに、いきなりぼやいてくる。
「いや、目が充血してますよ」 笑いながら言うと、佐々木さんがリュックをずり直した。
「先週の日曜、何考えてた?」 「え、普通に……“来週も5勝1敗でいけたら最高だな”って」 「それだよ。欲出すと、返ってくる反動もデカいんだよな」 「ですよね。交流戦前は“5割で十分”って思ってたのに、いつの間にかそれじゃ足りない気がしてました」 「しかも負け出すと、心にめっちゃ響くのよ」 「わかります」
そのままエスカレーターを上がり、東北新幹線の改札をくぐる。 朝の東京は湿気をまとっていて、シャツの背にもう汗が滲んでいた。
「贅沢言わないからさ、残りの交流戦は6勝1敗でいってくれないかな」 「いや、それめっちゃ贅沢ですよ」
ホームで並ぶとき、いつものように佐々木さんがコーヒーを買ってくれる。 ブラック一択。「こういうのは変えたくない」と言って笑う人だ。
新幹線の窓から流れる風景を見ながら、佐々木さんが言った。
「にしても、今日は晴れそうでよかったな」 「ですね。せっかくの遠征ですから」
仙台までの1時間半。野球の話をしたり、黙ったり、揺られていく。 高木はぼんやりと窓の外を見ながら、考えていた。
もし店を出すとしたら、どこがいいだろう。小岩?それとも、まったく別の町? チャーシューの仕込み、焼き飯を鍋に押しつける手の感覚、油のはねる音。 それが全部、自分の“看板”になる日が来るんだろうか。
仙台駅から仙石線で4分。宮城野原駅を降りると、ユニフォーム姿の人たちが列をつくっていた。
「やっぱここまで来ると、タイガースファン多いですね」 「アウェイなのに、なんか嬉しいよな」 佐々木さんが汗をぬぐいながら笑う。
時折、雲の切れ間から陽が差す。 傘はいらない。でも、タオルはあったほうがいい——そんな空気だ。
楽天モバイルパーク。 赤と黒と黄色が、スタンドの中でまだら模様に揺れている。 風が通る外野席に腰を下ろすと、左腕の筋肉がじんと重く感じられた。
気づけば、自分の生活の中で、阪神タイガースって一番長く“好き”でい続けてるものかもしれない。 それは決して、強いからでも、勝つからでもなくて、 ——見てると、自分もがんばろうって思えるからだ。
自分の店を出すってことも、 それくらい「好きなもの」を信じて始めることなのかもしれない。
けれど、“始める”っていうのは、思った以上に遠い。 味は?場所は?金は?人は? 昼の営業、夜の仕込み、税金、そして店名。どれもまだ決まってない。
けど——。
「……何かを始めるには、どれくらいの覚悟がいるんだろうな」
つぶやいたのは、自分に向けてだった。 けれど隣から、「ん?」という短い反応が返ってきた。
阪神の先発はルーキー伊原、楽天は藤井。左腕同士の対決だった。
初回、伊原は2番小深田、3番浅村を連続三振。隣に座る佐々木さんが声をあげた。 「伊原くん、たまんないね。なんとかこのままいってくれ」
試合が動いたのは4回。阪神は2アウトながら1・3塁のチャンス。 ヘルナンデスの大飛球はセンターオーバーかという打球だったが、楽天のセンター辰巳が好捕。 「あれ取るのかよ」「うまいなあ」と顔を見合わせる。
その裏、楽天は4番伊藤のツーベースから、助っ人ゴンザレスが先制タイムリー。 「楽天いい助っ人取ったな……」
5回、阪神は満塁のチャンスを活かせず、その裏、楽天にはさらに1点を加えられる。
「普通に送りバントして点とってって……なんか流れは向こういってるな」「やらなきゃいけないことを全部相手に決められてますよ……今週は」
6回には球数が90を超えた伊原だが、三振を含む三者凡退。 「伊原、三振多くない?これ報われないのは辛いなあ」「打線、援護してやってくれよ……」愚痴が自然と多くなる。
7回表、豊田の渋いヒット、頼りになる坂本のツーベースで1点を返し、なおも無死3塁。 俊足・植田が代走に入り、近本の犠牲フライで同点。 「追いついた! 追いつくって、こんな嬉しかったんだな」佐々木さんと一緒にほっと胸を撫で下ろした。
8回、及川が2アウト2・3塁のピンチを三振で切り抜け、ガッツポーズ。 「苦しかった……よく抑えたなあ」「本当に、及川まで打たれたらもう立ち直れないっす」
延長11回、佐藤と大山が連打。大きなチャンスに楽天モバイルに詰めかけた阪神ファンは地鳴りのような大声援を送る。2アウト後、バッターは梅野。球場の空気が一瞬止まる。手に持ったメガホンの汗がぬめる——だが楽天のルーキー右腕・江原に押さえ込まれた。 「もう、どうやって点取ればいいか分かんねえよ……」佐々木さんが、絞り出した言葉は消えそうなほど弱々しかった。
12回、2アウトから中野がセンター前ヒットも、森下がキャッチャーフライ。今日の勝利はなくなった。 佐々木はガックリとうなだれている。その横顔が、今週の苦しさを物語っていた。
「……まず負けないって目標に切り替えましょう、あと1回」高木はそうつぶやきながら、気持ちを立て直そうとしていた。
その裏、こちらは回跨ぎのピッチャー湯浅が、1アウト1・3塁のピンチ。最後は内野安打から三塁走者の本塁突入を許し、試合終了。 スコアは3-2。6連敗。
「なんだよこれ……もう、帰り道重すぎるだろ」佐々木さんが大きく息を吐く。
「まだ新幹線、時間ありますよね。とりあえず……牛タンとビールですか?」
4時間を越える熱戦。 負けた悔しさのなかで胸に残ったものはなんだろう。
勝ったか、負けたか。 その結果よりも、何かが終わったあとの空の色や、余韻の方が心に残ることがある。
スタンドをゆっくり出ていく途中、佐々木さんが言った。 「……最後まで、ピッチャーは粘ったよな」
回跨ぎで継投リレーをした及川、岩崎、湯浅の姿がずっと頭に焼きついている。
空は少しだけ暗くなっていた。
日は傾き、夕暮れが足元から滲んできた。
「……覚悟って、数字で測れるもんじゃないんすね」 そう言うと、佐々木さんは「急にどうした」と笑った。
6連敗。勝ちたかった。
「いや、なんか……今日、ちょっと考えちゃって」 「なに、結婚?」 「違いますよ、仕事の話っす」
肩をすくめて答えながら、でも本当はちょっとだけ—— 明日、親父さんに話してみようかと思っていた。
自分の店のこと。
まだ“挑戦”なんて言葉は、どこか居心地が悪い。けれど、今日みたいな負け方を見届けたあとだからこそ、何か一歩進める気もしている。
中華鍋を振ってきた毎日が、背中を押してくれている。
——火は、とっくについていた。
【本日のスコア】阪神2-3楽天(延長12回サヨナラ) @楽天モバイルパーク
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