2025年6月5日、エスコンフィールドで行われた阪神vs日本ハムの一戦は、阪神が7-1で快勝。
デュプランティエが粘投を見せ、森下の2点タイムリー、佐藤輝明の16号ソロで試合を終始優勢に進めた。
でも34歳の西野亮にとって、この日スタンドで受け取ったのは点差でもヒーローでもなかった。
それは、三か月前に“再読込”して掴んだ座席、そしてベランダで触れた指先の感覚へと、
そっと繋がるような──静かな、夢の更新だった。
靴下とアップデート〜阪神タイガース観戦記|2025年6月5日
目覚ましは三度鳴った。 ベッドから転がり落ちて洗面所に向かった瞬間、足裏が“ぐにゃ”と沈んだ。
見れば、昨日干したはずの靴下の片方がフローリングでふて寝している。
もう片方は見つからない。牛乳パックの影をのぞいても、そこにはいなかった。
「頼むからペア行動してくれよ」とぼやきつつ、電子レンジの前で歯磨きを始めた。
おかしな動線のまま、札幌市の白石区から地下鉄東西線に飛び乗り、大通で乗り換えて北広島行きのシャトルバスに揺られていると、制服姿の高校生がスマホで今日のスタメンオーダーを議論している。 ――昔の自分も、ああやって声を張り上げていた。今はスマホ越しに動画を巻き戻すのが習慣になった。情熱は変わらないのに、どこか静かな日々。少し胸がちくりとした。
西野亮、34歳。 2020年の春に東京生活をたたみ、札幌へ戻って丸五年。 今は新札幌の物流センターで荷札を貼る仕事をしている。 朝四時に目覚まし時計が震え、夜九時に布団に沈む――それが、誰に見せるでもない毎日の“打席”だった。
東京で百貨店に勤めていた頃は、毎日が派手だった。 スーツと香水の渦のなかで、客の一言に一喜一憂し、同期と閉店後の神宮外苑を歩いた。 札束よりも拍手が欲しい20代――そんな日々に迷いはなかった。
だが2020年春、売場が畳まれるニュースが唐突に届く。 まさかの早期希望退職の紙を渡され、気付けばペン先がサイン欄を滑っていた。
「いつか東京に戻るかもしれない」と思ったが、その“いつか”は、東京の街角に置いてきたままだ。
単調な現場に不満はない。ただ、声を張る場面がない日々が続くと、たまに喉がさび付く。
そんなある夜、LINEニュースで交流戦のカードを眺めていて指が止まった。 ――阪神がエスコンに来る。 反射的に公式サイトを開き、座席図を何度もズーム。発売初日の午前10時、ページが何度も固まりながらも、 “再読込”を連打して三塁側指定席を確保した。三か月以上前の話だ。
何ヶ月も先の座席を取っただけなのに、胸の奥が少し騒いだ。
夢って、更新していいんだろうか。そんな問いが、ひとりでに浮かんできた。
二十代は、売場でトップを獲ることが夢だった。 三十代に入り、夢という単語は棚の上で埃を被った。 だがチケット購入メールの受信音を聞いたとき、心臓が “確かにバウンド” した。
今の目標は、甲子園でも東京ドームでもない。 「北の新球場で、また声を出してみたい」――ただそれだけ。 誰かに自慢できるような目標じゃない。でも、今の自分がしっかり握れるちょうどのサイズだった。
バスを降りた時から感じていた胸のざわめきは、そのまま一回表へと流れ込んだ。
日本ハムのルーキー左腕・細野の150キロ近い直球は迫力満点――なのに制球がはみ出す。
押し出し四球で阪神があっさり先取点。
スタンドがざわつくたび、胸の内側に小さな波紋が広がった。
「勝てるかも」
その思いは、誰よりも先に、自分の中で跳ねていた。結局初回に2点を先制した。
一回裏。阪神先発のデュプランティエは、動画で何度も巻き戻した“えぐい”変化球をそのまま実演。
二人にヒットを許しても、最後はフルカウントからのストレートで空振り三振。
かみしめたガッツポーズのまま、動けなくなった。
生で見るデュープは、映像より深く刺さった。
試合が動いたのは五回表。ヒットと四球で一死二・三塁、バッター森下。スタンド中が「追加点!」と念じる気配と、それ以上の大声援で満ちる。
森下のバットが逆方向へ運んだ打球が芝を滑り抜け、二者生還。 思わず頬がゆるみ立ち上がったが、隣の虎ユニの男性にハイタッチを求める勇気はまだ出なかった。
その裏、デュプランティエが再び圧巻の三者凡退。万波や清宮など、若手タレント揃いの日ハム打線に一歩も引かない。痛快、なんて言葉じゃ足りない。 思わず呟く。「だめだ、完全にデュープのファンになった」。
八回表、日ハムの三番手、福谷の低めの変化球を捉えた佐藤輝の打球がライトスタンドへ吸い込まれた。 初回の押し出しから数えて5点目のダメ押し弾。 気づけば立ち上がり、今度こそ隣の男性と手を叩き合っていた。 手のひらが少し痛い。その実感が嬉しかった。
佐藤のヒーローインタビューがまだ響いていた。
その声援を背に、内野ゲートを抜けると、通路の空気が一段冷たくなった。
汗ばんだ首筋をすっとなぞる風に、少しだけ現実が戻ってきた。
紙コップのビールの残りを飲み干すと、口の中まで少し冷たくなった。
隣を歩くカップルが「あのテルのライトスタンド、えげつなかったな」と笑い合っている。 西野は胸ポケットのチケットの半券を指先でいじりながら、足を止めずに歩いた。
北広島駅までのシャトルは満席。 窓に映る顔は、倉庫帰りのそれよりも赤く、どこか、軽くなっていた。 スマホのカレンダーを開いて、来年の六月第一週に指をあてる。 「来年は甲子園か」とつぶやきながら、「交流戦」とだけ入力して、“保存”をタップした。
夢は、でっかい目標じゃなくてもいい。
誰かに語らずとも、ひっそりと更新していけばいい――そんな気がした。
一年後の自分がまた球場に向かう、その小さな約束だけが、気づけば、心の真ん中に居座っていた。
帰宅後、洗濯機の底から、あの靴下の片割れが顔を出した。
西野は無言で揃えて干しながら、指で洗濯ロープを一度だけ弾いた。
弾んだその音が、小さく、でもはっきりと、夜の空気を揺らしていた。
【本日のスコア】阪神7-1北海道日本ハム@エスコンF
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