目の前で完封勝利が決まったのに、立ち上がることも、声を出すこともできなかった。
ただ、最後まで降りなかった背中を見ていた。
帰り道、男はスマホを開いて、一行だけ打ち込む。
「明日、午前便、希望します」
それは、自分にとって初めての“逃げなかった一日”だった。
午前便、希望します。〜阪神タイガース観戦記 2025年5月20日〜
阪急桂駅のホームに立っていた。村井亮介、47歳。
軽配送の仕事が一本キャンセルになり、午後がぽっかり空いた。
時間の埋め方がもうわからない。
いつもなら、駅前のパチンコ屋に入り、ただ座って時間を潰す。勝ち負けじゃない。「今日も何もなかったな」で済ませるのが、ここ最近の“やり方”だった。
でも今日は、甲子園に行くことにした。
一昨日、山崎からLINEが来ていた。
《20日、甲子園、チケット余ってる。行く?》
返信は「行けたら行く」。予定を曖昧にしておくのは、昔からの癖だ。
けれど翌日、「6時、球場前集合」とだけ通知が届いた。
迷ったまま、当日を迎えていた。
営業、倉庫、警備、軽作業──職は転々とした。
履歴書はすぐに埋まるのに、中身は何も残らない。
「人間関係がしんどくて」と口にしてきたが、本当は違う。
どうせ無理やろ、もうええわ。
そうやって自分から離れてきた。それだけのことだ。
誰にも責められず、でも誰にも届かない。
そんな年月を、静かに重ねてきた。
山崎とは、数年前に同じ現場で知り合った。会話は少なかったが、休憩中に缶コーヒーを差し出されて言われたのを覚えている。
「最近の中野、ええよな」
いきなり野球の話だった。阪神の。
Xで毎試合、実況や感想を投稿しているらしい。
最初は、その熱に距離を感じた。でも、汗をかいたあとに語るその言葉には、不思議と説得力があった。
甲子園に着くと、山崎が先にいた。
「今日の2軍、19失点やって」
「それは……キツいな」
「でも、見てる人がおる限り、終われへんのよ」
そう言って笑った。
一塁側の席に着くと、山崎がつぶやいた。
「森下、今日やってくれそうやな」
その直後、1回裏。森下がレフトスタンドへツーランを放った。
球場が爆発したように沸き、山崎は立ち上がってタオルを振った。
村井は焼きそばの容器を持ったまま、少し遅れて拍手をした。
4回表、巨人の中山がセンターフェンス直撃の打球を放ち、三塁を狙って走った。
近本が中継へ返し、中野がすぐさま三塁・佐藤輝へ送球。クロスプレーでアウト。
まるでお手本のような美しい中継プレーに、球場がどよめいた。村井も、思わず身を乗り出していた。
試合は5回、6回と落ち着いた展開が続き、7回には森下の犠牲フライで待望の追加点が入った。
「この1点はでかいで。」
山崎がつぶやく。
村井は咳払いをして姿勢を直した。
周囲のテンポと、自分の体温がまだかみ合っていない。
でも、それでもいいと思えた。今日は、なぜか居心地が悪くなかった。
8回裏、才木がヘルメットをかぶって打席に向かった。
「続投か……すげぇな」
山崎が思わず漏らす。
交代の気配はない。才木は、ベンチを振り返りもせず、黙ってバットを握っていた。
村井は、手元のペットボトルに手を伸ばしかけて止め、そのまま、目だけで才木を追った。
そして、9回表。
129球目。
リチャードが引っ掛けた打球はショートへ。
アウトのコールと同時に、スタンドが沸き返った。
才木はマウンドを降り、捕手・梅野と軽く肩を叩き合った。
村井は、立ち上がらなかった。
声も出さず、拍手もせず、ただ座り続けていた。
自分で投げ続け、自分で終えた背中。
あんなふうに何かを終わらせたことが、自分にあっただろうか。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
帰り道。甲子園駅の改札前。
山崎が「今日は文句なしやな」と笑う。
「せやな」
村井は短く返し、ポケットからスマホを取り出した。
勤務先の配送アプリには、明朝の枠が一件だけ残っていた。
たった二時間、早く起きるだけの話。
でも、その“だけ”が、今までずっとできなかった。
やめておく理由はいくらでもあった。
しんどい、眠い、道が混む、やる気が出ない。
でも今日は、どれも自分の口から出したくなかった。
親指が、静かに動いた。
「明日、午前便、希望します」
送信ボタンを押したあと、スマホをしっかり握りしめた。
どんな一日になるかなんて、もちろんまだわからない。
でも、今ここで逃げなかったことだけは、自分でちゃんと覚えておきたかった。
今日のスコア(2025年5月20日)
阪神 4 − 0 巨人(甲子園)
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