中学1年生の茜は、クラスの会話についていけない自分に少し戸惑っていた。
そんな彼女が、お母さんと訪れた東京ドーム。
野球の熱気のなかで、彼女が見つけた“ちがう温度”の正体とは——。
ちがう温度で、生きていた 〜阪神タイガース観戦記 2025年5月5日〜
連休前の教室。みんなが当然のように、自分の“好き”を語っていた。
「なにわ男子の新曲、マジで神だったんだけど」
「え、でもウチはSnowMan派かな〜」
「うちは、コムドット。YouTube毎晩見てる」
話題はアイドル、YouTuber、恋バナ、TikTok。ひとつの話が3分ともたない。
みんなが「好き」を即答できることに、どこかでついていけない自分がいた。
「茜は？ 誰推し？」
「……んー、まだ迷ってる」
とりあえずそう言って、笑った。
でもほんとは、わたしには「これが好き」って、はっきり言えるものがない。
言えない、というより、わからない、が近い。
ゴールデンウィークの真ん中に、わたしはお母さんと東京ドームに行く予定だった。
だけどそれを、誰にも言わなかった。なんとなく言いづらくて、話題にものせなかった。
野球って言ったら、「え、意外」「渋いね」って、言われそうで。
お母さんは西宮出身。東京に住んでいても、関西弁はそのままだ。
とくに阪神の話になると、語気もテンションもぐっと上がる。
「茜、はよしいや、間に合わへんで」
そう言って急かされて水道橋に着いたのは、14時。
試合開始は18時。どう考えても早すぎる。
でもお母さんは「早よ行こ、ドーム前のグッズ売り場すぐ混むから」と言って、気合が入っていた。
東京ドームシティで遅めのランチをしてから、場外のグッズ売り場に並んだ。
黄色と黒のタオル、キャップ、ストラップ。
お母さんはあれこれ選びながら、わたしにも「これ、巻き」と無造作にタオルを渡してきた。
黒のパーカーに、黄色のタオルがやたら目立った。
「目立つやん……」
「ええねん、虎は目立ってなんぼや」
東京ドームに入ると、三塁側は阪神ファンでいっぱいだった。
お母さんの「ここや！」という掛け声で席につく。まだプレイボール前。スタンドでは応援の準備が始まり、ビール売りの声が早くも響いていた。
お母さんは、携帯を見ながら「今日は戸郷か」とつぶやいた。
名前は知っていた。お母さんがよく口にしていたからだ。
その戸郷が、初回のマウンドにあがった。
久しぶりの一軍マウンドで最初から気合が入っている。スピードガンに表示された数字は「152km/h」。
「戸郷、戻ってきたんやな。ええ球放るわ……これ、阪神打てるかな」
褒めてるのか、心配してるのか、どっちなんだろう。
でも、お母さんのそういう言い方は、どこか懐かしくて嫌いじゃなかった。
1点を追う4回。森下が放った打球は、レフトスタンドに吸い込まれていった。
わたしでも、入るとすぐわかるほどの打球。
「ほら、言うたやろ！ 森下くんや！」
お母さんがわたしに叫ぶけど、わたしは森下の背番号だけを目で追っていた。
そのとき、胸のあたりがふわっと軽くなった気がした。
スタンドの歓声に混じって、自分の中にも何かが跳ねた。
6回表、小幡の内野安打から始まって、中野と森下のタイムリーで逆転。テルも二塁打で続く。
三塁側はお祭り騒ぎになっていた。
「茜、今のテルやで！ テルわかるやろ？」
わかってる。何度も家で聞いた。けど、今日はただ頷くだけじゃなく、目がちゃんと追いかけていた。
わたしが小さな頃から、お母さんがテレビをつけると、阪神戦が流れてた。
洗濯物を畳みながら「ああー、今のボールやん」と独り言みたいに話してるのを、わたしは横で聞いていたのを思い出す。
そのときはなんとも思わなかったけど、あれがわたしの中に残ってたんだと、今日はっきりわかった。
9回表、打席にはテル。
バットが振られた瞬間、ガツンという音がして、観客がどっと湧いた。
瞬きする間もないくらい、力強くのびていくボールはライトスタンドに飛び込んでいった。
「言うたやろ茜。あれが……」
「テルやろ」
わたしはお母さんより早く口にして、ニッと笑ってみせた。
水道橋の駅へ向かう人波のなか。
「なんか今日、あんた、ちょっとちゃうかったな」
お母さんが、ぽつんとそう言った。
わたしは返事をしなかった。
でも、さっきまでいたあの空間と、この夜風と、自分の足音とが、ずっと並んでる気がしていた。
たぶんわたしは、ちがう温度で、生きていた。
みんなと違っていたし、お母さんともたぶんちがう。
でも、それが正しいか間違いかなんて、どこにも書いてない。
ちがう温度のままで、生きていけばいい。
最初から、野球が。阪神が。
好きだったんだ。わたし、ちゃんと。
【本日のスコア】 阪神10-１巨人 @東京ドーム
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