離婚から2年、感情を閉ざしていた41歳の男が、甲子園でふと涙する。
鉄仮面の素顔。〜阪神タイガース観戦記2025年4月25日
「お先です」 三井雅史は、今日も定時で会社を出た。 外はまだ明るい。甲子園へ向かう電車のホームに立つと、スーツ姿の自分が浮いているのがわかる。でも、気にならなかった。
今夜は阪神対巨人。甲子園ナイター。後輩の今村と一緒に、内野席で観戦する約束をしていた。
「三井課長、今年は優勝いけますよ」 「そやな。誰が見ても、強い言えるチームや」
感情をあまり出さない三井にとって、こんな風に誰かと野球を語るのは珍しい。 社内でのあだ名は「鉄仮面」だとか「アイスマン」だとか言われているらしいが、確かに仕事には厳しいほうかもしれない。
会社では業務以上の会話はあまりしないが、五つ下のこの今村だけは、野球という共通項があり、屈託なく話しかけてくる。
電車の中で、今村がスマホで昨日のハイライトを見せてきた。 「森下、昨日えげつないホームラン打ちましたね」 「……打つ思てたわ。ほんま、今年のクリーンナップは強いで。」
自分でも驚くくらい、自然と声が出た。
甲子園は賑わっていた。 ふたり並んで座った内野席の後方、冷たい風が時おり頬をかすめる。
この球場には、元妻と何度も来た。 大の虎党の彼女は、佐藤のファンで、応援歌がかかると大きな声で歌っていた。 そんな姿に、最初は戸惑っていたけれど、いつの間にか自分も声を出していた。
「今日は佐藤、打ちますよね」 「一打席目は三振やったけど……なんか期待してまうよな」
場内には空気が震えるくらいのチャンステーマが響く。 懐かしい声が、耳の奥に蘇る。
── ほら、テルやで! 歌お!
そんなふうに言ってた、彼女の笑顔を思い出す。
バットが振られた瞬間、打球はバックスクリーンへ吸い込まれた。 「うわ……マジか……」
三井の目に、何かがにじんだ。
「三井さん、どうしたんすか?」 「……ちゃうねん。ちょっと、びっくりしただけや」
試合は阪神のペースで進んだ。 エース村上が要所を締め、6回表も最小失点で切り抜けた。
「3回のセンターフライ、近本よう捕ったな」 「はい!あれ、流れ変えましたよ」
隣の今村は目を輝かせている。 それを見ているうちに、ふと、あの頃の自分を思い出した。 彼女と、何度も甲子園へ足を運んだ頃を。
「三井さん、ビール、おかわりいります?」 「うん。……いや、俺、ちょっと行ってくるわ」
トイレに立つふりをして、スタンドの後ろまで歩いた。 スマホを取り出して、写真を開いた。 最後に来た日、彼女が撮った一枚。 「また来よな」って言って笑ってた。
あの日から、もう2年。 泣いて別れたわけじゃない。お互い仕事も忙しくて、ちょっとずつ、すれ違っただけだった。 最後まで、どっちが悪いとかもなかった。 「ほな、元気でな」って言って、手を振りあった別れだった。
今日の甲子園で、胸の奥にあった何かが溶けた気がした。 しまっていた感情に、球場の音と風がそっと触れたように。
9回表。 岩崎が最後の打者、キャベッジを三振に仕留めた。 スタンドは沸いた。 「六甲おろし」が流れ、観客が一斉にタオルを掲げる。
今村ははしゃいでいた。 いつの間にか立ち上がり、周りのファンとハイタッチをしていた。
余韻を残し球場を出て、ふたりで黙って歩いた。
梅田へ向かう電車の中で、今村がぽつりと言った。 「また、来ましょうよ」
「……ああ。来よか、また」
「三井課長、奥さんのこと、考えてたでしょ?」
「……エスパーか、お前」
絶句しながらも、頬がふっと緩んだ。 鉄仮面だなんだと言われても、大事な人との記憶は、ちゃんと仮面の下にしまってある。
そして、それがふいに顔を出すのが──やっぱり、甲子園なのだ。
【今日のスコア】 阪神 4 − 1 巨人(2025年4月25日|甲子園)
📘この記事は「TIGERS STORY BLOG」の投稿です。
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