小谷澄子、65歳。
定年後の夫と、またこうして並んで座っている。
もう特別な日でもないのに──不思議と今日は、あの頃を思い出した。
あの頃のとなり〜阪神タイガース観戦記2025年5月29日〜
朝、トイレのドアが開きっぱなしでな。
「また閉めてへんわ」と思いながら、うち、そっと閉めたんよ。これで今週3回目や。
うちの人、65で定年してから、ずっと家におるねん。
最初は「お疲れさまやな」て思てたけど、3ヶ月目くらいからな……うん、まあまあまあまあまあ、言わんでもわかるやろ?
なんでも口出すねん。洗濯物の干し方とか、テレビの音量とか、冷蔵庫の野菜の位置まで。
「これはここやろ?」って言いながら、玉ねぎをキャベツの棚に入れたとき、うちほんま爆発しかけたわ。
子どもらはもう家出てしもてな。
正直ちょっとさみしい思うてたけど……いざ夫と二人きりになると、
「ああ、子育てって、間を持たせてくれてたんやな」て気づいたわ。
そんなんで、朝からちょっとモヤモヤしとったら、この人が言うねん。
「今日、甲子園行こか。しげやん来られへんねん」て。
どうやら、近所の阪神仲間がドタキャンしたらしい。
タイガースの試合や。
いつもは一人か、しげやんと行くくせに、なんでうち誘うんよ。
「暑いで? おにぎりも作らなあかんのやで?」言うたけど、
「今日ぐらい、一緒に行こや」やて。
あの人、なんやったっけ。高校のとき、坊主頭で白球追いかけてたんよな。
あれに惚れて付き合いはじめて……結婚して、気づけば40年。
ほんま、あの頃の面影、頭の上にはもう残ってへんけどな。
でも、帽子かぶって背筋しゃんとしてる後ろ姿見たら、
なんかこう、ねえ……わからんでもないやん?
うちが「暑いで?」言うたん、正解やったな。
ほら、今日はナイトゲームやからまだええけど、昼やったら確実に喧嘩やで。
あの人な、もう朝の10時から玄関ウロウロしとったんよ。
「デュプランティエとジャクソンか、ええ対決やな」とか一人でしゃべって。
せやけど、まだ昼前やっちゅうねん。
こっちはこっちで、おにぎり作って、水筒に麦茶入れて、帽子忘れんようにとかやってんのに、
「スコアブック持っていこか迷うな〜」とか言うて、玄関で立ち止まってんねん。
もう、それ置いてええから、とにかく座っててくれへん?
電車の中もな、ずっとしゃべってんの。
「ジャクソン、フォークどうなんやろな」とか「森下は今日は打つと思うで」とか。
もう隣で喋りっぱなしで、うちは正直、ちょっと頭痛くなってきてた。
けどな、ふと思ったんよ。
この人、誰とおってもこんなふうには喋らんのやろなって。
普段は寡黙なくせに、タイガースの話になると急に陽気になって、
おまけに今日みたいな日は、わざわざうちを誘う。
そら、うるさいし、疲れるし、「一人で行ってきて」って言いたくなる日もあるけど……
でもなんやろな。こんなふうに、横に並んで話を聞いてる時間、
なんやかんや、嫌いにはなれへんのやわ。
甲子園のスタンドについたら、風がちょうどよかった。
23度。春と夏の間の、いちばんええ時期。
「この時間、最高やな」ってこの人が言うたから、
うちは「ほんまやな」ってだけ返した。
なんか今日は、それでええ気がした。
「今日も白熱するでえ」
着いた瞬間から、この人はもう上機嫌やった。
大好きな甲子園やもんな、そら浮かれるのも無理ないわ。
空は曇り。雨さえ降らんかったらええけど──それが、うちの本音。
1回の表、デュプランティエの立ち上がりは見事やった。
ストレートもキレてたし、変化球もよう落ちとった。
うちは普通に「へえ、すごいな」と思いながら見とったけど、
この人は1球ごとにうなずいてて、1回投げ終わったあとに言いよったんよ。
「ミスター精密機械や」
……は?
うち、思わず聞き返しそうになったけど、あの人、どや顔でこっち見てんねん。
どうや?って顔。
せやけどどこで聞いたん、そのセリフ。しかもおもんないし。
ほんでなんでうちに確認してくんねん。
その後の1回裏。
中野が打って、森下がええとこ打って、先制点が入ったときは、
「この1点は大きいでえ!」って、また声がでかいんよ。
なんやろな、この人って、ほんま“間のとれへん漫才師”みたいなとこある。
タイミングも表情も、ちょっとズレてんねん。
でも、うち、ちょっと笑てしもた。口の端、上がってたわ。
この人、楽しそうやなぁって。
けどな、4回表で同点にされたときや。
DeNAの牧が打った瞬間、センターバックスクリーンあたりまで飛んだやろ。
この人、ずっと手元のスコアブック見とってな、
「え、ええ……?」って、だんだん顔がぐにゃってなって、最後は苦虫かんだ顔してた。
うち、なんかそれ見て、またちょっと笑てしもてん。
「ほんま、わかりやすい人やなあ」って。
嬉しいときははしゃいで、悲しいときは口数減って。
まるで高校のときのあの人と、変わってへん。
せやけど、それを何十年も見てきたのって──
うちだけなんよな。
……そんなこと思てたら、7回表や。
ジャクソンもデュプランティエもよう粘っとったけど、この回で一気に流れがDeNAに傾いた。
1アウトから連打と四球。
DeNAは代打・宮崎を出してきた。
うちは「やばいな」と思いながらも黙って見ててんけど、
となり見たら、この人は目ぇ細めて、口を真一文字に結んどってな。
──没頭しとる、てより、祈ってる顔やった。
そして6球目。宮崎は振らんと押し出しのフォアボール。
その瞬間、うちには分かったんよ。
となりで、この人の肩、すうって落ちた。言わんでも分かる。呼吸みたいなもん。
そしたら、ぽそっとつぶやいたんよ。
「……精密機械が……」
……え、まだ引っ張ってたん?
うち、思わず笑いそうになったけど、言わへんかった。
追加点も取られて、1−4になって、この人はもうしゃべらんようになった。
8回のルーキー工藤のマウンドのときなんか、
まるで抜け殻みたいな目ぇしとった。
せやけど、9回にはちょっと戻ってた。
「ええやん。工藤も木下も。これはええ経験やと思うよ」
1点取られても、なんや、もう気にしてへんみたいやった。
この人って、ほんま切り替えだけは早いんよな。
……いや、切り替えんと、やってけへん人なんかも知らんけど。
結局、1−5で負け。
うちはもう、ちょっと疲れてたけど、
この人が言うんよ。
「さあ、どっかでご飯食べて帰ろか? 今日の反省会や」
ほんで、うちは思たんよ。
「うち、まだ聞かされるん?」って。
でも──なんやろな、悪い気はせんかった。
また隣で、ようわからん解説して、笑って、時々黙って、
そうやって夜を歩いて帰るんも、もう慣れっこになってしもたけど。
それでもたぶん、うちは今日、ちょっとだけ思ったんやわ。
この人の“となり”でよかったな、って。
【今日のスコア】
阪神 1 – 5 DeNA(2025年5月29日・甲子園)
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