岡山市在住の31歳・宇田川葵は、地元ケーブル局の番組構成を担当しながら、父と二人で暮らしている。
番組素材のチェック、家事、そして夕方の観戦。
そんな彼女が、年に一度の倉敷マスカットスタジアムで目にしたものは──延長11回、森下の押し出し四球による、今季初のサヨナラ勝利だった。
たまには、わたしの都合で 〜阪神タイガース観戦記2025年5月28日
洗濯物のピンチハンガーをベランダに干して、
まだぬれてるのを確認してから、家を出た。
岡山駅から山陽本線に揺られて、中庄に着いたのは16時すぎ。
平日のホームには学生も会社員も少なくて、ちょっと拍子抜けする。
それでも球場の最寄りに着くと、阪神ユニの人たちがまとまっていて、
あ、今日の正解はやっぱり“こっち”だったんだなと思った。
「遅れたーごめん!」
駅の階段下で手を振ってきたのは、麻里亜。
高校の軽音部で一緒だった子で、今は県庁で働いてる。
派手な色のキャップを深めにかぶって、
バッグからペットボトルを取り出してるその姿に、
ちょっとだけホッとする。
「ちゃんとチケット、あるよな?」
「あるって、1塁アルプスの14段目。通路側」
「ナイス。あんた、段取りだけは社会人」
朝から3本、番組用の素材チェックして、父の食事を用意して──ようやく着いたのが今、だった。
マスカットスタジアムの芝生は、相変わらず明るくて、
外野席から聞こえるウォーミングアップの音も、
なんだか音楽みたいに聞こえた。
才木がキャッチャーに向かって腕を振るたびに、
空気がシュッと切り裂かれていく感じがして、
ああ、この距離で見れるのは、たぶん、特別だ。
「バウアーやろ?マジで見れるんじゃな、今日」
「てか、こっちは才木やで。あんた、どっち応援なん」
「どっちも観たいだけやん。ええじゃろ、別に」
「うん、ええけど」
会話の端々に混ざる麻里亜の岡山弁が、
どこか懐かしくて、少しだけくすぐったい。
今日の観戦は、仕事じゃない。取材でもない。
“誰かに何かを伝えるため”じゃなくて、
ただ、自分の都合でここにいる。
そう思えることが、
ちょっとだけ誇らしい気がした。
「うっわ、レフト森下やん」
麻里亜が言う。
「ってか佐藤、またライトに戻されとるし。あれ、2年ぶりじゃろ?」
「やっぱ守備位置、安定せんなあ」
「ヘルナンデスが三塁って、そっちもドキドキやわ」
「うちら、よく知っとるよなあ…って思わん?」
「そりゃ、学生時代から見とるもん」
そう言って麻里亜が笑ったあと、スタジアムに打球音が響いた。
3回表。
先頭のバウアーがヒットで出塁したあと、
桑原もヒットでつなぎ、あっという間にノーアウト1・2塁。
「うわ、これやばいやつ…」
「ちょ、ほんま息できん」
「ちょっと黙って」
「ごめんて」
牧。
佐野。
オースティン。
「牧、2割5分って絶対ウソやろ…」
「数字だけ見とったらアカンやつやな」
周囲の観客も息をひそめる。
麻里亜のペットボトルのラベルが、指先できゅっ、と音を立てた。
そのときだった。
牧の打球がライトに上がる。
佐藤が、太陽の残照を気にしながらも懸命に構え、捕球。
「やば、取った!」
「さすがテルちゃん、えらい!」
スタンドのあちこちで、歓声と安堵の拍手が混ざる。
ふぅ……と、わたしたちも同時に息を吐いた。
「なあ」
麻里亜がぼそっと言う。
「なんで試合観るだけで、こんなに緊張すんのやろな」
「それ、ずっと思ってた」
「心拍数とか測ってみたいもん」
バウアーのシルエットが、3塁側ベンチに引いていく。
才木がマウンドに向かう。
照明が少しずつ明るくなり、空の色も変わってきた。
スタンドのざわつきと静寂が、同時に降りてくるような感じ。
わたしの中では、試合が進んでいることだけが確かなことだった。
才木も踏ん張り、両エースの投げ合いの中、試合は中盤へ。
8番・梅野。
3球目のストレートに、バットが空を切る。
空振り三振。バウアー、これで本日、8個目の三振。
そして、5回が終了。
ネクストバッターズサークルで、才木がバットを握り直していた。
ベンチに戻る視線も、スタンドからのため息も、すべてが止まったように感じられる。
点は動かないけど、ピリつくような緊張感だけが、じわじわ積もっていた。
その直後、球場にアナウンスが流れた。
スタンドがざわつき始めたかと思うと、
バックスクリーンの奥で、ぱん、と音がした。
夜空に浮かぶ花火。
1発目の白が弾けると、続けて赤、青、黄色がひとつずつ。
1塁側・3塁側、両軍の選手たちがベンチ前に出てきて、花火を見上げていた。
観客も、スマホを構えながら、風と花火の音に耳を澄ませていた。
「こういうの、家で観てても感じられへんよな」
麻里亜が、静かに言った。
「…うん」
「で、あんた、なんで今日来たん?」
花火がひとつ、音だけで夜空に消える。
「…わたしが観たかったから、って答えじゃダメなんかな」
「ええと思うけどな。あんた、よう動いとるやん。仕事も、家のことも」
「別に誰かに言われたわけやないけどな」
「言われてないのが、いちばんしんどいんよ」
わたしは空を見上げたまま、言葉を足した。
「お父さん、ああいう音きらいやから、家で観てたらチャンネル変えられとったな」
「たまには、あんたの都合で、ここにおってええんよ。」
麻里亜の声は、はっきりしていた。
花火が終わる。
照明が戻り、球場の空気がふたたび張り詰めていく。
わたしの中では、麻里亜の、そのひと言がずっと響いてた。
7回表。
先頭のバウアーに四球を与えた瞬間、
「まーた、バウアー出してるやん」と麻里亜がつぶやく。
そのあと桑原にも四球が出たとき、
「また、セットで出してるやん…」
わたしたちは顔を見合わせて、苦笑いした。
牧をセンターフライに仕留めたところで才木はマウンドを降り、
後を託された及川が、連続三振。
ピンチを、静かに、美しく、刈り取った。
「ほんま、こういう投手陣ってありがたいよな」
麻里亜が言った。
「それな。なんか、気持ちがしゃんとする」
8回裏、2アウトから近本が二塁へ滑り込んだ。
「久しぶりに、2塁まで行ったな」
わたしが言うと、麻里亜も「それ」とうなずいた。
マスカットスタジアムに、
ひさしぶりに“期待”という体温が戻ってきた。
……が、そこにもバウアー。
中野を三振に取り、無言でベンチへ戻っていった。
試合は9回を終え、延長戦へ。
石井、岩崎、湯浅、岩貞——
阪神のリリーフ陣は一人ずつ、まるで命綱を渡すようにマウンドをつないだ。
ヒットすら許さない、胸に残る投手リレーだった。
「週頭からリリーフ陣、フル稼働やん」
「なんか、胸が熱いわ」
11回裏、代打・糸原がヒット。すかさず代走・熊谷。
続く近本が右中間へ運び、ノーアウト2・3塁。
中野が敬遠され、満塁。
麻里亜が叫ぶ。
「今日イチやん、こんな場面!」
そして、打席には3番、森下。
フルカウントまで粘った8球目。
押し出し四球。
阪神ベンチが一斉に飛び出した。
グラウンドに駆け寄る選手たちの背中と笑顔と歓声。
今日いちばん大きな揺れが、私たちの地元、マスカットスタジアムに広がった。
—
朝から番組の素材を確認して、父の食事の準備をして、
なんとか帳尻を合わせて出てきた、今日。
家で観てたら、きっと7回くらいで
「もうええじゃろ」ってチャンネルを変えられてたと思う。
でも今は、目の前で、
ユニフォームの背中がはねて、喜びの輪ができて、
その真ん中に“森下”って名前があって。
試合の内容も、勝ち方も、
たぶん今日のニュースで流れるだろう。
でもこの感覚だけは、
映像じゃなくて“わたしの中”にちゃんと残ってる。
—
ねえ、
「自分の都合で笑った日」って、
なんか、あとからじんわりくるんだね。
【今日のスコア】
2025年5月28日(火)倉敷マスカットスタジアム
阪神タイガース 1 – 0 横浜DeNAベイスターズ(延長11回)
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