阪神タイガースの試合を、誰かと一緒に観に行くことになるなんて、思ってもいなかった。
それも、あの若菜と一緒に。
カーテンコールの外で 〜阪神タイガース観戦記2025年4月23日
最初に声が出なかったのは、あの舞台だった。
予定通りに感情を作ってきたのに、相手役の台詞が少しだけずれて、
次の一言が喉につかえた。
客席の空気が止まり、共演者の台詞がかぶさった。
拍手は起きなかった。
あの夜を境に、愛美は“感じるより先に黙る”ことを覚えた。
それは自分を守る方法で、役に入りすぎない生き方だった。
そうでもしなければ、続けられなかった。
若菜とは、ほぼ同じ時期に劇団に入った。
年も一つ違いで、稽古場でも出番でも、ずっと並列にいた。
それなのに、若菜だけは少しずつ“見られる側”になっていった。
若菜は昔から阪神ファンで、稽古中もこっそり速報を見てはよく怒られていた。
若菜は、考えるより先に声が出る。
演出じゃないのに、目を引いてしまう。
その姿が、時々怖かった。
羨ましさが混ざると、ますます苦手になった。
「明日、野球行かない?」
若菜が言ったのは、稽古終わりの薄暗いロビーだった。
知り合いからもらったチケットらしく、気軽に差し出された紙片には
“横浜スタジアム 内野指定席”と書かれていた。
愛美は断ろうと思った。
でも断らなかった。
たぶん、それは何かを確かめたかったからだ。
4月23日、水曜。雨上がりの横浜スタジアム。
風が少しだけ湿っていて、肌寒かった。
阪神の先発は門別。DeNAはジャクソン。
1回表、近本が盗塁を決め、森下のライト前で阪神が先制。
スタンドの波が揺れていた。
若菜が「やった」と小さく言った。
愛美は拍手しようとして、やめた。
音を出すタイミングがわからなかった。
ズレたときの空気を想像して、手を戻した。
3回裏、DeNAが三森のタイムリーで同点に追いつく。
ライトスタンドの揺れが、風と混ざって押し寄せる。
若菜が身を乗り出し、表情が変わった。
その顔が芝居のそれじゃなかったから、愛美は少し目をそらした。
4回表、阪神が満塁のチャンス。中野のタイムリーで勝ち越し。
若菜がすっと立ち上がる。
愛美も身体を浮かせたが、膝が動かなかった。
立てなかったわけじゃない。
でも、もう遅かった。
「飲み物、買ってくる」
5回裏の途中で若菜が立った。
愛美は頷くだけで、何も言わなかった。
戻ってきた若菜は紙コップを2つ持っていて、ひとつを差し出してきた。
「コーラとウーロン、どっち?」
愛美はコーラを取った。
一口飲んでから、小さな声で「ありがとう」と言った。
若菜は特に何も言わず、席の方を向いたままだった。
その横顔を見て、なんとなく少しだけ、呼吸が楽になった。
6回裏、DeNAの反撃ムード。
桐敷がマウンドに立つ。絶体絶命の場面。
けれど彼は、二者連続三振でピンチを断ち切った。
スタンドが大きく揺れ、若菜が「うわっ」と叫んで立ち上がった。
愛美は声を出さなかった。
でも、どこかで“言ってもいいのかもしれない”と思っていた。
それを言葉にするタイミングを探しているうちに、攻守は交代した。
8回裏、何気なく掲示板を見上げた若菜が言った。
「及川くん、今年めちゃくちゃ安定感あるよね……」
愛美は、うなずくだけだった。
ほんの一言だったけれど、
その声が自分の方を向いていたことが、なぜか嬉しかった。
言葉じゃなく、温度みたいなものがそこにあった。
9回が終了し、スコアは2-2のまま延長戦に入る。
風が変わった。観客の声がざわつきのように滲みはじめる。
愛美は、まだ何も出していなかった。
でもそれを「失敗」とは思わなかった。
怖がっていない自分がいることに、ほんの少し驚いていた。
10回表、大山の打球が夜空を裂いた。
白球は夜に吸い込まれるように、レフトスタンドの阪神ファンとDeNAファンの間へ。
観客の声が押し寄せる前に、いつ取り出したのか、若菜が真っ赤なタオルを高く掲げていた。
愛美は立たなかった。
でも、立てなかったわけじゃない。
膝に置いていた手が、少しだけ反応していた。
誰かの拍手を真似ようとしたのかもしれない。
音にはならなかったけれど、初めて“混ざりたい”と思った。
若菜のタオルは、まだ揺れていた。
それを見て、愛美は、初めてそれがまぶしいと思った。
【今日のスコア】
阪神 3 – 2 DeNA(延長10回)
📘この記事は「TIGERS STORY BLOG」の投稿です。
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