1点差で終わった試合だった。
あと1本、あと1歩が届けば、結果は変わっていたかもしれない。
長谷川遥。名古屋市内の大学3回生。
負けた今日の帰り道には、たしかに別の何かが残っていた気がする。
今日は、まだ途中 〜阪神タイガース観戦記2025年5月24日
岐阜の実家を出て、名古屋で暮らすようになって、もう三年目になる。
電車で一本、距離にすればたいしたことないのに、名古屋はずっと遠く感じていた。
どこに行っても人が多くて、言葉も少しだけ違って、誰といても“よそ者”みたいな感覚が抜けないまま、三年目。
それでも、誘ってみた。
ゼミが一緒の“彼”に、バンテリンドームでの阪神戦を。
「野球好きなんだね」って言われるのが少し恥ずかしくて、
「いや、子どもの頃から親が見てたから」と、曖昧に返した。
本当は、藤川球児の最後の登板を見て泣いたし、登場曲が流れるだけで今でも泣きそうになる。
でもそういうのは、たぶんまだ、言うタイミングじゃない気がした。
駅のホームで待っていたら、彼が少し遅れてやってきた。
「ごめん、バス逃して」
手にはスタバのアイスラテ。
「これ、冷たいから先にどうぞ」って、紙袋ごと私に差し出した。
そんな、ささやかな優しさがうれしくて。
だけどその優しさが、いつまでも私たちを“恋人未満”に留めている気もして、複雑だった。
ドームに入った瞬間、空気がひんやりと冷たくなった。
外の蒸し暑さがまだ身体に残っていたから、余計に冷たさが際立つ。
まるで、ここだけ時間が止まっているみたいに静かだった。
三塁側の上段。ビジターの阪神ファンが集まるブロックに席を取った。
ユニフォームの人たちが、あたりまえのように座って、あたりまえのように叫ぶ声を、私は少しだけ誇らしく感じていた。
彼はといえば、座って周囲をきょろきょろ見ている。
「こういうの、来るの初めてだから」
「うん、わかる。音、大きいよね」
「うん、思ってたより、ボールの音するんだな」
そんな会話を交わしていると、まるで“いい関係”に見えるかもしれない。
けれどそのどれもが、核心を避けてる気がして、内心ずっと落ち着かなかった。
気づけば、私たちは一度もお互いの名前を呼んでいなかった。
「阪神ってさ、年上のピッチャーにやられがちなの、なんでなんだろうね」
私の言葉に、彼がちょっと考えてから言った。
「…昨日の、あの…涌井?って人とか?」
名前を覚えてくれてたのが、少しだけうれしかった。
こういう「わかってくれる感じ」が彼にはある。
それが嫌いじゃない。でも、物足りない。
どうして一歩踏み込んでくれないのか。どうして私も、それを言い出せないのか。
「中野くんって、守備もうまいし、チャンスに強いんだよ」
私がふと口にしたその一言のあと、彼が笑いながらこう言った。
「…はるかって、ほんと野球詳しいんだな」
どきっとした。
呼ばれ慣れたはずの名前なのに、彼の声で聞くと、耳がびっくりしてる。
心のどこかが、やっと探してた鍵に触れたような気がして、言葉の続きを飲み込んだ。
それから、私は数分ごとに彼の横顔を見てしまうようになった。
目の前で野球が始まっているのに、ずっと彼の声の残像ばかり追いかけていた。
佐藤のホームランが飛び込んだ瞬間、思わず笑ってしまった。
あまりに説得力のある打球で、思考が追いつかなかった。
右中間の深いところへ一直線に飛んでいくボールを見て、声が出た。
「今の、すごかったね」
隣で彼がそう言ったけど、私はなぜか頷けなかった。
ただ、「すごいね」って言葉に乗っかってしまうと、何かを肯定してしまう気がして。
それが彼との関係なのか、自分の気持ちなのかは、まだわからなかった。
けれど、その一撃がすぐにかき消されたのが、2回裏。
中日のリードオフマン岡林。やっぱり大竹、またこの人に打たれた。
なんとなく最近こうなってる気がする。
彼が言った。「相性ってあるんだね」
「うん。あるよ」
淡々と返したけど、その“相性”という言葉が、自分たちのことのようにも聞こえて、胸の奥に引っかかる。
私と彼にも、相性ってあるんだろうか。
沈黙のまま迎えた6回。
それまで阪神打線を3安打に抑えていた中日のエース・高橋が、6回に初めて乱れた。
連続四球。ここまで完璧だっただけに、球場にざわつきが走った。
「なんか起こりそうだね」って彼が言った。
私は、心の中で「起きなきゃ困るよ」と呟いた。
試合も、この関係も。
もう少し何かが動かないと、ずっと同じ場所で回っているだけだ。
森下、そして佐藤が倒れて、また嫌な空気が流れた。
ああ、やっぱりこのまま、って思ったとき、5番・大山の打球がレフトフェンスにはね返った。
スコアボードに「3−3」が並んだ瞬間、三塁側の空気がふっと変わった。
それと同じように、私の中でも何かが少しずつ形を変えはじめていた。
自分でも、それにまだ気づききれていないだけで。
岩貞のピッチングは、息を呑むようだった。頼れる左腕。
ベテランの活躍はなんか嬉しい。
6回、7回を完璧に抑えて、三塁側の空気が少しずつ引き締まっていくのがわかった。
試合も、きっとこのまま流れをつかめる。そんな予感すらしていた。
でも、8回。
マウンドに上がった工藤が、いきなり先頭に四球を与えた。
「……まずいかも」
彼がぽつりと呟いたとき、私はなぜか言葉が出なかった。
すぐに上林に二塁打を浴び、そして高橋周平のセンター前。
「2点か……」
ああ、きついなあ。心の中で、誰に向けるでもなくそう思った。
それ以上にきつかったのは、自分の気持ちが、やっぱり言葉にならないことだった。
9回表、阪神の攻撃。代打、渡邊の四球に続いてヘルナンデスのヒット。
「何か起こるかも」
彼が真顔で言う。
私も、少しだけうなずいた。
それでも、あと1本が出なかった。
内野ゴロで1点は返したけど、最後の打者・中野が三振。
試合終了。スコアは、5対4。
あと1点だった。
その1点が、どこまでも遠く感じた。
席を立って、通路に出たとき、私は彼の背中に声をかけた。
呼び方に迷って、ちょっとだけ間を置いてしまう。
「……ユウスケくん」
彼が、振り返る。少しだけ、驚いたような顔で。
「え?」
「ううん、なんでもない」
呼んでしまった名前が、胸の奥でまだ響いている。
試合は終わったけど、今日は、まだ途中かもしれない。
うまく言えないまま残った気持ちが、歩くたびに少しずつ形になっていく気がした。
【今日のスコア】 阪神 4 − 5 中日(バンテリンドーム)
📘この記事は「TIGERS STORY BLOG」の投稿です。
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