阪神がロッテに2−0で勝利し、カード勝ち越し。来日初の完投・完封を達成したデュプランティエと坂本の好バッテリーが光ったこの試合。京都の宇治でミシンを踏む郁美と、夢を語る珠紀。同級生のふたりの距離が少しだけ変わった夜を描いた観戦記。
ミシンノコドウ 〜阪神タイガース観戦記2025年6月19日〜
服飾の専門学校を出てから、ずっとここで縫ってる。
宇治の小さな縫製場。ミシンの音と、アイロン台の蒸気。糸くずのついた制服。
それが、うちの日常。カタカタ、カタカタって、リズム良くずっと鳴ってるその音が、
なんか、自分の鼓動みたいに思えるときがある。
お母ちゃんが昔、内職でやってたのを見てたからやろうな。
晩ご飯のあと、座敷に広げた布の山と、電球の下で揺れるミシンの音。
なんかあれ、かっこええなって思ったん、今でも覚えてる。
だから自然に、専門行って、そのまま家からチャリで15分の縫製工場に入った。
誰かに「夢ってあったん?」て聞かれたら困るけど、うちはこれでええと思ってた。
ずっとここにおる。それが“うち”やから。
「やほー、郁美。あんた日焼け止め持ってへん?」
京都駅の八条口、夏みたいな日差しの中から現れた、珠紀がいきなり言う。
「忘れてもてん。はよ貸して、てかなんやねんこれ、もう夏やん」
「ほんま、梅雨もなくなったんかって感じやな」
会わへん間も、こうやってすぐ笑えるのがうちらや。
阪神の話になったのも、当然の流れ。
「昨日の伊藤、よかったな」
「うん、2試合連続でええピッチングやった。帰ってきたなって感じ」
「チカちゃんと小幡の中継プレーも地味に好きやった」
「お、アンタええとこ見てるやん」
「テルのホームランもやばかったやろ」
「うん、でも今日に取っといて欲しかったなあ」
電車が発車するときの風が、スカートの裾をふわっと揺らした。
湿気のある風と一緒に、観光客のキャリーの音が響いた。
視線の先には、甲子園に向かうんやろなと思わせる、ユニフォーム姿の少年。
「うちらも、何やかんやで長いよな」
「中一からやで。もう16年?」
「うわ、こわ」
珠紀とは中高が一緒やった。
高校んとき、珠紀が文化祭の有志バンドでやたら張り切ってたのを憶えてる。
ギターとリズム隊の男子に混じってマイクを握る珠紀は眩しかった。
卒業してそのまま美容の専門に行って、京都駅前のサロンで働いてたけど、3年くらいで辞めてた。
それが今は飲食店を掛け持ちして生計を立てている。ほんまに、よう動く子や。この行動力に脱帽する。
どこにいても太陽の熱は私たちを追いかけてきたけど、球場に向かう電車の中も、甲子園の入場ゲートにできた列も、全部が“夏の甲子園”っぽくて、うちはなんかちょっと浮ついてた。
「うちさ、また専門行こうと思ってる」
珠紀の突然の一言に、背中がスッと冷えた気がした。
「は? どこの?」
「今度は、製菓の。パティシエなるやつ」
「美容の次はお菓子かいな。飛びすぎやろ」
「でもなあ、なんか……今、何かをちゃんと作りたくて」
言い方が軽いぶん、こっちの胸にだけ重く残る。
そんなん、簡単に言えるもんなん?来年はうちらも三十歳やで。
うちには、仕事あるし、家もあるし、親もおる。
急に「もう一回、夢見るわ」って、怖ないん?
そう思ったけど、口には出さんかった。
それでも珠紀が眩しく見える自分が、なんか悔しかった。
自由って、ちょっとずるい。
試合は序盤から、なんかロッテ先発の種市くん、思ってたよりコントロールええやんってなって。
1回も3回も、大山がチャンスで三振して、うちら「うーわ、あかんか」って苦笑い。
ヒリヒリした試合展開に、昨日の快勝がちょっと遠く思えた。
でも、5回。
先頭の小幡くんが、センター前にキレイに打ち返して、「最近よう打つなあ」って珠紀。
送りバントと相手のミスで満塁になって、近本が打ち上げたフライを、レフトの岡がギリギリ捕った。
けどそれが犠牲フライになって先制。
「よっしゃあああ!」って思わず立ち上がって。
隣の知らんおっちゃんともハイタッチしてた。
甲子園って、そういうとこや。
7回、またチャンスで回ってきたんが大山。
もう今日は見たくない…って思いかけたとき、センター前にタイムリー。待望の追加点のプレゼント。
「私は信じてたで」って、うちがいち早く言ったら、
「私かて打つ思ってたわ」って、珠紀。
どっちもほんまは心折れかけてたけどな。
それも含めて、掌返しはここではようあることや。
9回のマウンドにもデュプランティエ。
初回からずっと投げて、6回と7回のアウトは全部三振やった。球数も100を超えそうやった。
代打の切り札ソトがバッターボックスに立った瞬間、うちは思わず手ぇ合わせてた。
逆転負けが続いた先週の記憶が蘇る。
ひとつ、またひとつ、坂本のミットに投げ込むたび甲子園が反応する。
フルカウントからの6球目。空気を切るような内角ストレートが決まりソトを見逃し三振に仕留めたとき、なんか、「ひえっ」て変な声出てもうた。
最後のバッター4番・山本も空振り三振。来日初完投、初完封やって。
タイガースの勝利に甲子園がひとつ、大きく息を吐いた気がした。
デュプランティエの嬉しいお立ち台も見届け、後にした甲子園。
帰りのJR京都線、冷房があまり効いてない車内で、まだ連勝の余韻に浸ったまま郁美は口を開いた。
「……あんたがパティシエなったら、その制服、うちが縫うわ」
「は? ほんまに?」
「ほんまに。縫製工場も10年選手や。なめたらあかんで」
珠紀は少し笑って、でもそのあと、ぽつりとこぼした。
「……そんなん、ちゃんと10年続けてきたあんたやから言えるんやろな」
予期せぬ珠紀の一言に、郁美は、思わず視線をそらした。
その仕草を見て、珠紀はもう一度、声を落として言った。
「うち、ほんまは郁美みたいになりたかってん」
「え、なんで?」
「だってあんたって昔からミシン踏むのが好きで、今もそれができてるやん……うち、なんか、そういうのないから」
「アンタは……自由やん」
「自由って、逃げの言い訳やで」
ふたりとも黙って、窓の外の夜に目を向けたまま、何も言わんかった。
珠紀の横顔が、ちょっとだけ大人に見えた。
球場の外側、ミシンの外側。甲子園でタイガースが勝った夜。
私たちの生活のほんのちょっと外にあった、今日という一日が、
胸の奥でひとつだけ、小さく“コクリ”と音を鳴らした。
【今日のスコア】阪神2−0ロッテ @甲子園球場
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