試合概要・あらすじ
8月5日、バンテリンドーム名古屋で行われた阪神対中日戦。中日が3回裏に2点を先制し、試合は膠着状態が続いた。7回にはハートウィグが満塁のピンチを切り抜ける好投を見せ、8回表に佐藤輝明の逆転3ランホームランで阪神がついに逆転。9回にはさらに追加点を挙げ、6-2で阪神が逆転勝利を収めた。先発の高橋遥人とハートウィグの継投が功を奏し、打線では佐藤輝明の一発が試合を決定づけた。
卒論のテーマは「応援文化と集団心理」。
その調査の一環として、名古屋の大学に通う大学4年生・隼人は、同級生の碧と一緒にバンテリンドームを訪れる。
ただの観察者として座ったスタンド席――
けれど、満員の応援と碧の横顔に、隼人の中の何かが少しずつ動き始めていた。
スイッチを押したのは彼女か、自分か。
研究のフィールドワークが、いつのまにか“自分ごと”になるまでの一日を描いた物語。
スイッチ〜阪神タイガース観戦記2025年8月5日
バンテリンドームで感じた熱気
バンテリンドームの入口で、僕は立ち止まった。
外は三十六度。アスファルトから立ち上る陽炎が、歩く人たちの足元を揺らしている。でも、ドームの中に入った瞬間、空調の冷気が首筋を撫でて、汗が引いていく。碧が振り返って、「涼しいでしょ?」と言った。僕は頷いて、借り物の阪神ユニフォームの袖を引っ張った。
人が多い。それも、ただ多いんじゃない。みんな黄色い。
「うわあ」
声に出してしまった。碧が笑う。
「すごいでしょ。火曜日なのに、この人数だもん」
ビジター席に向かう通路で、僕たちは人の流れに身を任せた。前を歩くおじさんは背中に「梅野」のユニフォーム。その隣の女性は「近本」のタオルを首にかけている。子連れの家族は、小学生くらいの男の子まで阪神のキャップを被っている。
「みんな、遠征組?」
「うん。名古屋だと、阪神ファン結構いるんだよ。でも今日は関西からも来てるかも」
碧の声が、いつもより少し弾んでいる。ゼミの時とは違う顔だった。
通路の売店では、店員が「いらっしゃいませー」と声を張り上げている。弁当を受け取る人、タオルを選ぶ人、レジに並ぶ人たちで混雑していた。僕は無意識に、スマートフォンのメモアプリを開いていた。
『17時15分頃 入場 観客の一体感が既に形成されている 色彩による集団アイデンティティの可視化』
卒論のために、最低限の予備知識は仕入れてきた。
応援歌、選手の名前、球場のレイアウト、SNS上の言説の傾向。でもそれはあくまで、観察者の目線だった。
「何書いてるの?」
碧が覗き込んできた。僕は慌ててスマートフォンをポケットにしまう。
「いや、なんでもない」
「卒論のメモでしょ?」
ばれてる。
「……そんなとこ」
「真面目だなあ」
碧が苦笑いを浮かべた。それが、少し寂しそうに見えたのは、僕の見間違いだろうか。
二人の距離と野球への想い
座席は三塁側、ビジター応援席の中段真ん中あたりだった。
周りを見回すと、本格的な阪神ファンばかりだ。メガホンを持参している人、応援歌の歌詞が書かれたボードを持っている人、ユニフォームを着込んで完全装備している人。僕だけが、なんとなく場違いな気がした。
「緊張してる?」
碧が聞いてきた。
「してない」
「嘘だ。顔に書いてある」
僕は苦笑いする。碧がバッグからタオルを取り出す。中野拓夢のタオルだ。
「これ、今年買ったんだ。中野のプレー見てたら、どうしても欲しくなっちゃって」
「中野って、どんな選手なの?」
「すごくいい選手だよ。打てるしバントも上手だし、走塁も上手い」
「へえ」
「しかも守備も安定してるし。見てて安心できるんだよね」
碧がタオルを膝の上に広げる。その仕草が、なんだかとても慣れていて、僕はまた観察してしまう。彼女にとって、これは日常なんだ。僕にとっては非日常だけど、彼女にとっては。
「で、今日はラッキーだよ。先発は高橋だし」
「高橋遥人か。高校生のころ、プロスピでよく使ってた」
「隼人、意外と詳しいじゃん」
「ゲームでの話だけどね。実際に見るのは初めて」
「春にはいなかった人が、真夏にいるって、ちょっと泣きそう」
碧の横顔が、少し切なそうに見えた。僕は、また観察してしまう。でも今度は、スマートフォンに記録しなかった。
「相手は大野だから、簡単じゃないよね」
「あとさ、ボスラーとチェイビス。中日の助っ人、まじ怖い」
碧がスコアボードを見上げる。僕も釣られて見上げた。
まだ試合前なのに、球場全体がざわめいている。ホーム側からは中日ファンの声援が聞こえるし、僕たちの周りでも阪神ファンが盛り上がり始めている。
「すごいな、この雰囲気」
僕がつぶやくと、碧が振り向いた。
「初めて? この感じ」
「うん」
「どう?」
どう、と言われても。僕は言葉を探した。
「……熱い」
「熱いって?」
「みんなの気持ちが」
碧が微笑んだ。その笑顔が、いつもより少し誇らしげに見えた。
選手がベンチから出てきた。アップが始まる。ビジター席から大きな拍手が起こった。僕も釣られて手を叩いていた。
観察者から当事者への境界線
スコアボードを見上げていると、だんだん分からなくなってきた。
僕は何をしているんだろう。
最初は、観察するつもりだった。集団心理がどんなふうに働くのか、応援文化がどんなふういに形成されるのか。それを冷静に分析して、卒論に活かすつもりだった。
でも、隣の碧が「高橋、今日いけそうじゃない?」って言ったとき、
僕も「うん、期待できそう」って答えていた。
ゲームでは何度も見た名前だったけど、ベンチから出てきた高橋遥人は、ゲーム画面で見るのとはやっぱり全然違った。
視線を少し横にずらすと、前の席のおじさんが、落としたペットボトルのキャップを拾おうとしていた。
うまくつかめずにもたつく指先を見て、隣の席の人がさりげなく拾って手渡した。
僕は、その光景をメモしようと思った。でも、スマートフォンを取り出さなかった。
代わりに、碧を見た。彼女も、そのやりとりを見ていた。そして、僕と目が合うと、小さく微笑んだ。
「いいよね、こういうの」
碧がつぶやいた。
「うん」
僕は答えた。そして、ハッとした。
いつから僕は、こんなふうに反応するようになったんだろう?
「立とう」
碧が僕の手を引いた。僕は立ち上がった。
スピーカーから、阪神の選手紹介が始まった。僕たちの周りから、大きな歓声が上がった。
「近本光司!」
みんなが叫んでいる。僕も、なんとなく拍手していた。
「中野拓夢!」
また歓声。僕の拍手が、だんだん大きくなっている。
碧が隣で、中野のタオルを振っている。
髪が少し汗で頬にかかって、でもその表情はとても生き生きしていて、
僕はしばらく見とれてしまった——
こんな顔、ゼミでは見たことがない。
碧が振り返って、僕を見た。そして、笑って言った。
「もうええから、叫ぼ?」
その瞬間、僕の中で何かが動いた。何なのかは分からない。でも、確実に何かが変わり始めている。
球審がホームプレートを掃除している。まもなくプレイボールだ。
僕は、碧の隣で、両手を握りしめていた。
佐藤輝明の逆転劇と心の変化
「プレイボール!」
球審の声が響いた瞬間、僕の心臓が一つ跳ねた。
一回表。先頭の近本がサードゴロを打った。普通ならアウトだ。でも一塁への送球が逸れて、近本が二塁まで駆け抜ける。
「チェイビス、打撃成績良し、守備に綻びあり」
僕は無意識に頭で分析していた。でも、近本が二塁のベースに滑り込んだ時、三塁側阪神ファンの爆発的な歓声が響いて、僕の身体が痺れた。
三番森下が打席に入る。四番佐藤が続く。その威圧感は、バンテリンドーム全体を包み込むようだった。
でも、チャンスは活かせなかった。やっぱり大野もいい投手だ。
一回裏。高橋遥人が中日の先頭、岡林をセンターフライに打ち取る。続く田中、上林を連続三振。体を目一杯使ったダイナミックな投球フォームだった。
「よし。いいよ。ハルト。さあ援護点」
碧の声とともに、レフトスタンドの阪神ファンの応援が熱を帯びる。声がでかい。というか、よく通る。
「これは他球団ファンは嫌だろうなあ」
僕がつぶやくと、碧がチラッと見た。その視線に、何かを問いかけられているような気がした。
二回表。大山が四球で出塁。二アウトから熊谷から今日チーム初となるヒットが飛び出す。
「やったー熊谷くんナイス」
碧が満足そうに大きく息を吐いた。さらにピッチャー高橋も内野安打で、二アウト満塁。
ここで阪神ファンが「チャンステーマ」で近本を後押しする。僕の周りで、みんながメガホンを振っている。
「ねえ碧。阪神の応援っていつもこんななの?」
碧はこっちを見ることもなく、メガホンを大きく叩きながら応援に夢中になっている。
この熱狂の中にすっかり溶け込んでいる。僕は、その横顔を見つめた。
緊張の場面で、大野が近本を空振り三振に打ち取った。
「あーー」
という大きなため息と、ドラゴンズファンの拍手が球場を包んだ。
三回裏。石伊の鋭いヒットから始まって、二アウトから中日が一・三塁を作った。バッターは二番田中。短く持ったバットが鋭く振り抜かれ、打球はレフト線への適時二塁打。
中日先制。阪神0-2中日。
僕は無意識につぶやいていた。
「ドラゴンズ、沸き立つ。声量マックス」
そして碧の方を見た。目をうるませて、絶句している。その表情を、僕は凝視できなかった。
「あー流れ悪いなー」
真後ろの阪神ファンの声が聞こえた。
それからは、壮絶な投げ合いが続いた。高橋も大野も、ランナーを背負いながら踏ん張る。特に大野は、飄々とピンチを潰していく。ドラゴンズのベテラン左腕に、淡々と試合を支配されている気がした。
「大野、やっぱりいいなあ」
僕がつぶやくと、碧が振り返った。
「隼人、詳しいじゃん」
「プロスピで使ったことあるから」
でも、なんで僕は大野雄大の名前を覚えているんだろう。
そういえば、数年前のプロスピをやり込んでいた時、大野はみんなが使っていた。それぐらい圧倒的な投手だった。
プロ野球スピリッツでは数値でしか知らなかった投手が、こんなにも存在感があるとは思わなかった。
「うーん。老獪な投球って感じ、大野」
碧がしたり顔で冷静に分析する。でも心中穏やかではないはずだ。
七回裏。大きな歓声とともに、阪神の新助っ人ハートウィグがマウンドに上がった。碧がずっと騒いでた名前だから覚えていた。二軍での初登板は三者連続三振で圧巻のデビューだったらしい。
でも、四球、四球、また四球。
あっという間に満塁のピンチを背負った。
「あかんて、これ以上は〜」
悲鳴に似た声があちこちから聞こえる。僕の隣で、碧が小さくなっている。
でも、ここからだった。
ハートウィグが山本を空振り三振に打ち取った。続く石伊を、絵に描いたようなゲッツーで仕留める。自ら招いたピンチを、見事に切り抜けた。
絶望が漂っていたタイガースファンが、一気に息を吹き返す。
僕は、一連の流れに鼓動の音が早まるのを感じながら、大きく息をはいて碧に言った。
「野球って面白い」
その瞬間だった。僕の中で何かが完全に変わった。
碧が振り返って、少し驚いたような顔をした。そして、嬉しそうに笑った。
「でしょ?」
いつもより近くに感じる笑顔に、僕の胸が少し温かくなった。
グラント・ハートウィグ。忘れられない名前になりそうだ。
八回表。マウンドには中日三番手の橋本。先頭の中野が今日二本目のヒットを放つ。
碧はタオルをこれでもかと掲げている。
森下が四球で歩いて、迎えるは四番佐藤。
久々のビッグチャンス到来だ。
「さあいくよー」
碧が僕の肩を叩いた。僕は思わずハッとしたが、その直後、大きく流れたチャンステーマを見様見真似で思い切り歌っていた。
佐藤がバットを振った。
打球は高く上がって、青に染められたライトスタンドに消えた。
その瞬間、僕は自分でもわからないくらいの絶叫をしていた。
逆転。阪神3-2中日。
九回、森下と大山にもタイムリーが飛び出し、押せ押せムードのまま阪神が逆転勝利を収めた。
阪神6-2中日。
試合後の二人
九回裏が終わって阪神の勝利が決まった時、僕は碧と一緒に手を叩いていた。
「勝ったああああ」
碧が叫んで、僕の肩を叩いた。僕も叫んでいた。
「すげえ試合だった」
「でしょ? でしょ? 佐藤のホームラン、やばかったよね」
碧の顔が、汗と興奮で真っ赤になっている。
「あのさ」
僕は言った。
「何?」
「卒論、書き直すかも」
「え?」
「観察するつもりだったんだけど……無理だった」
碧が、きょとんとした顔をした。
「無理って?」
「客観的に見るの。気がついたら、一緒に叫んでた」
「あー」
碧が笑った。
「それでいいんじゃない?」
「え?」
「だって、ほんとのことでしょ? 推しって、観察するもんじゃないもん。一緒に時間過ごすもんだもん」
僕は、碧を見た。ゼミ合宿の夜、彼女が言った言葉を思い出した。
「推しってさ、生きてる時間そのものなんよ」
あの時はメモに留めただけだった。でも今なら分かる。
「そうかも」
「そうだよ」
碧が立ち上がった。他の観客も帰り支度を始めている。
「ねえ、隼人」
「何?」
「今度は甲子園行かない? 阪神の本拠地」
僕は、少し考えた。そして、笑った。
「行く」
「やった」
碧が拍手した。
「でも、条件がある」
「何?」
「今度は最初から、一緒に叫ぶ」
碧が、満面の笑みを浮かべた。
「約束」
僕たちは、バンテリンドームを出た。外はまだ暑かったけれど、夕立の匂いがしていた。
帰りの電車で、スマートフォンを取り出した。
メモアプリを開いて、『今日はありがとう』と打った。
隣で眠る碧に、声をかける代わりに。
そのまま画面を閉じて、スマホをポケットに戻した。
観察者のつもりだった。でも、巻き込まれていた。
いや、違う。
僕の中にあったスイッチを、碧がそっと見つけてくれた。
——押すか押さないかは、最初から僕が決めることだった。
電車が碧の降りる駅に着いた時、僕は碧を起こした。
「着いたよ」
「ん……ありがと」
碧が眠そうにつぶやいた。
「また今度」
「うん。学校で」
碧が振り返って小さく手を振った。僕も手を振り返した。いつもと同じ別れ方なのに、なんだか違って見えた。
僕たちは、それぞれの家に帰った。
家に着いて、僕は卒論のファイルを開いた。
『プロ野球における応援文化と集団心理』
カーソルが点滅している。
僕は、新しいファイルを作った。
『観察者からはじまる応援 ――集団心理の中で人はどう当事者になるのか』
最初の一行に、こう書いた。
——「観察者は、いつから当事者になるのか。」
外では、夜が更けていく。
今度会った時、碧に甲子園の約束について、話そう。
本日の試合結果
阪神 6-2 中日(バンテリンドーム名古屋)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安 | 失 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
阪神 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 6 | 9 | 0 |
中日 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 1 |
勝利投手:ハートウィグ(1勝0敗)
敗戦投手:橋本(2勝1敗)
セーブ:石井(1勝0敗4S)
本塁打:
阪神:佐藤輝明 28号(8回表3ラン)
試合のポイント:
- 3回裏に中日が田中幹也の適時二塁打で2点先制
- 7回裏にハートウィグが満塁のピンチを三振・併殺打で切り抜ける
- 8回表に佐藤輝明の逆転3ランホームランで阪神が3-2と逆転
- 9回表に森下翔太と大山悠輔のタイムリーで3点を追加
- 阪神が6-2で逆転勝利
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