試合概要・あらすじ
東京ドームで行われた【長嶋茂雄終身名誉監督追悼試合】で、阪神が巨人を3-0で下した。1回表に森下の2ランホームランで先制し、3回には大山の適時打で追加点を奪う。村上が9回無失点の完投で今季10勝目を挙げ、復帰した岡本擁する巨人打線を完封した。
板橋区在住の会社員・大沢拓人(45)が息子の隼人(15)と東京ドームへ観戦に向かう。1996年のメークドラマをリアルタイムで体験した父と、高校の野球部所属の息子が、追悼試合という特別な日に「他人の記憶でしか知らない出来事を、自分のものにできるのか」という問いと向き合う物語。
Memories Standing on the Field 〜阪神タイガース観戦記2025年8月16日〜
昨日の悔しさと今日への期待
昨日の逆転負けは、だいぶ応えた。阪神が四点先制して
「今日は余裕やな」
と思っていたら、終盤にあっさりひっくり返され、巨人が笑って終わった。
同じ阪神ファンの妻と、テレビの前で顔を見合わせた。
「え、負けんの?」
と、声じゃなく目だけで会話した。負けた。夜はビールが進まなかった。
そんな翌日、つまり今日は「長嶋茂雄終身名誉監督追悼試合」と銘打たれた二戦目だ。
ニュースでは特別映像、松井秀喜の始球式、全員背番号3のユニフォームと騒がれている。
そして、いよいよあの男――岡本和真が戻ってくる。怪我で離脱していた巨人の主砲。これが巨人にとっても負けられない大一番になるのは間違いない。
地下鉄後楽園駅のホームから、もうオレンジと黄色の波が見えた。息子の隼人は、背番号1のタオルマフラーを首に巻いて、コンビニで買ったアイスコーヒーを啜っている。俺は阪神のビジターユニを羽織り、心の中では昨日の悔しさと今日の高揚感が混ざり合っていた。
改札を抜け、人波に押されながら歩く間も、隼人は黙々とスマホで今日のスタメンを確認している。十五歳らしい集中力だ。前を歩く巨人ファンの親子連れが振り返り、俺たちの阪神グッズを一瞬見つめる。お互いに軽く会釈した。敵地とはいえ、野球ファン同士の無言の挨拶。こういうのが、悪くない。
球場の特別な空気と亡き父の記憶
スターってのは、いるものだ。特にSNSなんてなかった時代のスターは、もっと輝きが強かった気がする。きっと親父たちの世代は、ブラウン管の前で同じもの――長嶋さん――を見てきたんだろう。
俺が高校一年のとき、第二次監督時代の長嶋さんはドラフトで松井を引き当て、数年後、最大11.5ゲーム差をひっくり返して優勝した。いわゆる「メークドラマ」だ。
あの年、阪神は最下位で、俺たちは遠くからその巨人の快進撃を眺めるだけだった。それでも「すげぇもんはすげぇ」と思わせる力があった。野球というスポーツが持つ、理屈を超えた魔法のようなものを、あのときの巨人は体現していた。
球場に入ると、冷房の冷気と人いきれが混ざった独特の匂いが押し寄せた。売店には背番号3入りのグッズがずらり並び、特設モニターでは長嶋の名場面集が流れている。年配ファンが立ち止まり、黙って映像を見上げていた。中には目を潤ませている人もいる。俺も一瞬足を止めた。隼人がペットボトルの蓋を開けながら、
「やっぱり今日は空気が違うよね」
とぽつりと呟く。確かにそうだ。追悼試合という特別な日の、どこか厳かな雰囲気が球場全体を包んでいる。
映像に映る若い頃の長嶋さんを見ていると、あの夏の夜が蘇る。二年前に亡くなった親父と、二人でリビングのテレビにかじりついていた。
「拓人、これが野球の醍醐味だ」
と興奮していた親父の声が、今も耳に残っている。あのときの画面と、今目の前のモニターが重なって見えた。親父も今日の追悼試合を見たかっただろうな、と思う。
隼人が
「お父さん、今日岡本スタメンだってよ」
とスマホ画面を見せてくる。
「なんだって!」
声がひときわ大きくなり、周囲の視線を少し集めてしまった。
時代は変わった。阪神は育成とドラフトが当たり、今や常にAクラス。二年前には日本一にもなった。あのときは岡田監督と、見えない何かに感謝した。それでも俺は人間だ。煩悩もある。巨人を倒して、何度も優勝が見たい。巨人ファンだった親父とは違って、俺は生粋の阪神ファンだ。その気持ちは、親父と野球に夢中になったあの頃から変わっていない。
今日、岡本が四番で戻ってきた巨人に勝つことは、ただの一勝以上の意味を持つだろう。追悼セレモニーのアナウンスが響き、場内が静まり返る。グラウンドに並んだ選手たちのユニフォーム姿が、まるで時間を越えた写真のように見えた。
記憶への問いかけ
親父がよく語っていた現役時代の長嶋さんは、俺にとって他人の記憶だった。だが1996年のメークドラマは、自分のものになった。そして今、隼人の目には、この景色がどう映っているのか。もしかしたら数十年後、「2025年の東京ドームで岡本が戻ってきた試合」を息子は語るかもしれない。
他人の記憶でしか知らない出来事を、自分のものにできるのか――その答えは、この試合が教えてくれる。
俺たちはスタンドの席に着いた。隼人はスマホで今日の先発投手を確認している。座席を軽く拭いてから腰を下ろす様子が、なんだか大人びて見える。俺もビールを買いに立ち上がったが、
「まだ早くない?」
と隼人に止められた。確かに、セレモニー前からビールってのも品がない。
森下のホームランと村上の快投
試合前から東京ドームの雰囲気は少し違っていた。歴代の巨人軍の錚々たる顔ぶれによるプレーボールのコール。東京ドームのオレンジが一気に湧き上がる。荘厳なセレモニー。巨人としても負けられない一番だ。
巨人軍の先発は左腕井上。そして復帰した岡本がサードで四番に座っている。四番がいるだけで一気に巨人の打線に厚みが増す。
「望むところだ」
強がってひとりごちたが、今日の東京ドームの雰囲気に少し呑まれている自分を感じる。
先頭の近本が四球で出塁。中野がしっかり送りバントを決め、三番森下。四球目を捉えた打球はあっという間にタイガースファンの待つレフトスタンドへ。周囲のファンが一斉に立ち上がる中、隣の席のおじさんが
「よっしゃあ!」
と叫んで、こぼれたビールで膝を濡らしている。
「森下すげー」
隼人がそのまま口を開けて、ダイヤモンドを回る森下を見つめる。昨日の嫌な流れ、そして必勝を期すジャイアンツの出鼻を挫く素晴らしい一撃だった。こういう瞬間が、きっと息子の記憶に深く刻まれるんだろう。阪神2-0巨人。
阪神の先発はエース村上。立ち上がりが気になるところだが、2アウト後、3番泉口にヒットを許す。さあ岡本との勝負だ。打席に立つだけで威圧感がある。待ちわびた主砲の帰還をドーム全体が後押しする。
「やっぱ、圧あるよなあ」
隼人にそう語りかけると
「うん」
と頷く。その後、
「まあ巨人がテル(阪神四番)に感じる圧もそうなんじゃない」
と続けた。なるほど。確かにそうだ。巨人に四番岡本がいるように、阪神にはテルがいる。
この回先頭の中野が瞬足を活かしセンターへのツーベースで出塁。2番という役割上、送りバントも多くなるがヒッティングも打球判断も一級品だ。
「おお、ナイスヒット!」
「さあ、追加点のチャンスだね」
1アウト1・2塁になり、大山の2塁打が飛び出し、1点が入る。序盤での追加点に阪神ファンも盛り上がる。浮かれてビールを飲み干した俺を横目に隼人は呟く。
「油断できないよ。昨日も逆転されてるし」
「……」
我が子ながらクールなやつだ。でも、こうやって冷静に野球を見る姿も、今日という日の一部になっていく。後ろの席から聞こえる巨人ファンの溜息が、妙にリアルに響く。
巨人は早くも継投に入り、マウンドには菊池。打席には阪神期待の中川。第一打席に続き、今度は2塁打をレフト線に放って見せた。
「やっぱいいなあ。中川」
「うん、気迫が伝わるのがいいよ」
隼人の奴もなかなかわかっている。
我が息子隼人の予言とは裏腹に村上は安定感抜群のピッチングでアウトを重ねている。この回初めて先頭打者岸田に久しぶりのヒットを許したが、続く好打者・丸を2遊間の併殺打に打ち取る。
「素晴らしいな、村上は」
思わず声に出た。
継投に入った巨人とは違い、9回にもマウンドには村上が立つ。すでに100球は超えているが、投げ切れるなら、完封して欲しい。メークドラマは今日は見たくないと考えているうちに、村上はあっさり2アウトを奪い、最後の打者ヘルナンデスも初球をショートゴロに打ち取りゲームセット。
球場のあちこちから阪神ファンの歓声が響く中、隼人が小さく拍手している。
巨人にとって特別な試合を、四番岡本が戻ってきた東京ドームのジャイアンツを、村上が凌駕した。阪神3-0巨人。
記憶の継承
球場を出ながら、隼人が
「今日のこと、ずっと覚えてると思う」
と言った。俺もそう思った。出口に向かう人の流れの中で、勝利の余韻に浸る阪神ファンと、肩を落とす巨人ファンが混在している。
「お疲れさま」
隼人が俺の肩を軽く叩く。いつの間にか、俺の肩に手が届くようになっていた。その手のひらには、今日一日の重みが込められているような気がした。
他人の記憶でしか知らない出来事を、自分のものにできるのか。答えは、息子の手のひらの温かさにあった。記憶は受け継ぐものじゃない。その場に立った人間が、その瞬間に感じたものだけが本物になる。
地下鉄の駅へ向かう道で、隼人の首に巻かれた背番号1のタオルマフラーが、都心の夕風に小さく揺れていた。
本日の試合結果
スコアボード
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安 | 失 | |
阪神 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 7 | 0 |
巨人 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
責任投手
- 勝利投手:[ 阪神 ] 村上 (10勝3敗0S)
- 敗戦投手:[ 巨人 ] 井上 (3勝7敗0S)
本塁打
- 阪神:森下 17号(1回表2ラン)
- 巨人:
バッテリー
- 阪神:村上 – 坂本
- 巨人:井上、菊地、ケラー、船迫、宮原 – 甲斐、岸田
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