試合概要・あらすじ
2025年8月7日、バンテリンドームで行われた阪神vs中日戦は、中日が8-3で勝利した。注目のドラフト1位左腕対決は、中日・金丸夢斗がプロ初勝利を挙げる形で決着。阪神先発の伊原陸人は4回5失点で敗戦投手となった。
杉本課長(48歳)と再び野球を観に行く。入社2年目の僕──橋本豊(24歳)
ただそれだけのことが、こんなにも複雑で、しんどくて、でも少しだけ──救われるなんて思ってなかった。仕事では何度も話してきたはずの人の、球場での顔。これは、8月の平日。阪神タイガースが負けた試合で、僕が思いがけず”変化”について考えた一日の話。
杉本課長の沈黙〈Season2〉〜阪神タイガース観戦記 2025年8月7日
会社からの直行で
職場のエアコンがフル稼働している15時頃、僕のデスクに課長がやってきた。
「橋本、今日の件、どうや?」
今日の件──つまり、バンテリンドームでの阪神戦のことだ。
先月末に「木曜の試合、どうですか?」と思い切って、杉下課長を誘ってみた。
5月のバンテリン観戦以来、確実に、着実に課長との対話は増えた。
「16時半に出ますよね」
「そうそう。社外打合せで直帰や」
課長がそう言って、申請書をちらっと見せてくれる。
理由欄には「愛知地区得意先動向調査」と書いてある。
バンテリンドームのことを、堂々とそう表現する課長のセンスには、もう慣れた。
16時過ぎ、僕は先週完成させたプレゼン資料をUSBに保存していた。来週の部内会議で発表する企画の最終版だ。課長からは「データの見せ方、工夫せえよ」とアドバイスをもらっていて、グラフの配色を3回も変更した。
「じゃ、お疲れさまでした」
総務の島田さんに挨拶をして、鞄を肩にかける。
隣の席の岡田先輩が「早いですねー」と嫌味たっぷりに声をかけてきたが、「打合せなんで」とだけ答えた。
平日の夕方に、早退する後ろめたさより、今は野球への期待の方が大きかった。
―――
栄で名城線に乗り換える。
16時半の電車はまだ帰宅ラッシュには早いが、球場へ向かう人達で割と混んでいた。
課長は阪神のビジターキャップを深くかぶって、スマホで何かを確認していた。
「今日は32度やて。まだまだ暑いなあ」
「そうですね。でもドームなんで、大丈夫ですよね」
「まあな。けど、熱戦になったら、中も熱うなるで」
5月のときは、こういう課長の言葉にいちいち「そうですね」と返すのが面倒だった。でも今日は、なぜかそんなふうに感じない。慣れたのか、諦めたのか、それとも──。
ドーム前矢田駅で降りると、平日の夕方とは思えないほど人が多い。阪神ファンの黄色いユニフォームがあちこちに見える。中日ファンの青いユニフォームも、負けじと目立っている。
「平日やのに、よう入っとるなあ」
課長がつぶやく。確かに、5月の日曜日とは違った活気がある。仕事帰りに直行したサラリーマンも多いようで、スーツ姿で阪神グッズを身につけている人も見かける。
僕たちもその一部だ。
ドームの外周を歩きながら、課長は相変わらず予想を口にする。
「今日は小幡がまた打ちそうやなあ」
「伊原はどうですかね。少し休んだし、調子上がってきてますよね」
「そうやな。防御率1点台やもんな。ええピッチャーや」
前なら「そんなん知っとるわ」みたいな返事が返ってきそうだったけど、今日の課長は素直に同意してくれる。その変化が、僕には少し新鮮だった。
スタメン発表と予想の外れ
三塁側中段の座席は、5月とまったく同じ場所だった。でも景色の印象は、なぜか違って見える。
平日のナイターという時間帯のせいか、観客の年齢層が少し高い。仕事帰りの中高年が多く、5月の家族連れ中心とは雰囲気が異なる。
「さあ、今日は楽しみやで。金丸と伊原のドラ1対決や」
課長がそう言いながら、さっそくハイボールをグイッとあおる。
「勤務時間は過ぎてるし、まあええやろ」と笑いながら。
僕も同じくハイボールを買っていた。
夏の平日ナイター、これくらいの楽しみは許されるだろう。
「両方とも阪神が狙ってたんですよね」
「そうそう。金丸はくじで外れて、その代わりに伊原や。まあ、結果オーライやったけどな」
中日の金丸夢斗と阪神の伊原陸人。どちらもドラフト1位で注目された左腕だ。今日はその直接対決が見られる。
「中日は連敗中ですからね。今日は必死に来ますよね」
「せやな。けど、こっちも負けとられへん。首位キープせなあかん」
バックスクリーンにスタメンが表示される。三塁側から「おおっ」という声が上がった。
僕は素早く両チームの打順を確認する。中日は1番ブライト、2番田中幹也。阪神は1番近本、2番中野、3番森下、4番佐藤輝明。
「おい、小幡おらんやないか」
課長の声に驚きが混じる。
ショートには熊谷の名前があった。
課長は飲みかけのハイボールを膝に挟んで、ビジョンをもう一度見上げる。
──よく動く課長の口が、一瞬止まった。
「相手が左ですからね」
「まあ、そうやけど……」
課長は視線をスコアボードに移してから、また戻して、最後に隣の席の人の方をちらっと見た。
そのあたふたした感じに、僕は吹き出しそうになる。
「小幡、調子よかったんやけどなあ」
声のトーンが、ほんの少しだけ小さくなった。
5月のときなら、もっと断定的に「小幡が絶対スタメンや」とか言っていた気がする。でも今日は、現実を受け入れるのが意外と早い。
「5番が中川勇斗ですね。期待の若虎」
「……そうやな。ええバッティングしとる。」
そんな風に素直に同意する課長を見ていて、ふと思い出したことがある。
先週の部内会議で、僕は新商品の販売戦略について発表した。
課長は最後まで黙って聞いていて、終わった後も何も言わなかった。
でも翌日、僕の提案の一部が次週の企画会議の議題に入っていた。
あれが課長の采配だったのかは分からない。
でも、今日のこのリアクションを見ていたら──
「そういうことだったのかもしれない」と、少しだけ思えた。
「ちゃんと勝ちたい」という言葉
ドームの照明が本格的に灯り始める。まだ明るさの残る空の下で、屋根の内側だけが妙に白く感じる時間帯。そこに、プレーボールのコールが響いた。
周囲から拍手が上がる中、課長がひとりごとのように言った。
「なんや、今日は勝ちたい気がするわ」
「……課長、いつも勝ちたいって言ってません?」
「せやけど……なんちゅうか、今日は、ちゃうねん。こう……ちゃんと勝ちたいっていうか」
ちゃんと勝ちたい、という言い回しが課長から出てきたことが、少し意外だった。
前なら「ボロ勝ちや」とか、「3点あれば楽勝や」とか、そんなふうに語ってたはずなのに。
言葉のトーンが、どこか変わったような気がした。
―――
5月のとき、課長と来たのは、正直なところ”断れなかったから”だった。でも今日は、自分から誘った。
その理由を、まだちゃんとは説明できない。でも、こうして隣に座っている今の空気を思うと、誘ってよかったと思える。
課長が変わったのかもしれない。
でも──
普通に話している今の自分を、5月の自分が見たら驚くことだろう。
「今日は勝ちたい」──そう言った課長に、今の僕なら、はっきりこう返せる。
「僕も、です」
苦しい試合展開と課長の優しさ
課長が「ちゃんと勝ちたい」と言ったその試合は、いきなり苦しい展開になった。
1回裏、中日の攻撃。阪神先発の伊原はここまで5勝を挙げ、ルーキーらしくない活躍を見せてくれている。
しかし今日1番に入ったブライトがいきなりレフト線を破るヒット。レフトの中川が打球処理にもたつく間に一気に二塁へ。
その後2本の内野ゴロであっという間に1点を先制された。
「あかんて……」
隣で小さな声が聞こえた。今日もドラゴンズが先制。阪神0-1中日。
2回表、4番佐藤がセカンドゴロに倒れた後、課長が言った。
「今日大山がおらんのは昨日のデッドボールの影響か?」
「きっとそうですよね」
僕が答える。
「それにしてもまだ若い中川に5番は早いやろ。プレッシャーかかるて」
その中川への初球。迷いなく振り抜いたバットが金丸のストレートをとらえる。
この広いバンテリンドームのレフトスタンドへ突き刺さるホームラン。きっとプロ1号だ。
「ひえっ」
課長は驚きのあまりおかしな声を出して目をカッと見開き絶句した。
若虎の一撃で、阪神が即座に追いついた。
──だが、3回になっても伊原はなかなか立ち直れない。
連打を浴び、さらにボスラーにもタイムリーヒットを打たれ一気に3失点。2回にも同点にした直後だったのに、あっという間に2-5になっていた。
「ボールが高いですね」
僕がそう言うと、課長は「調子が悪いんやろうな」と静かに答えた。
その”調子が悪い”という言葉に、少しだけ優しさを感じたのは気のせいだろうか。
以前の課長なら、「甘い球ばっかり投げとる」ともっと厳しく言っていた気がする。
4回表、佐藤輝明がバックスクリーンへ豪快な一発を放った。
「見たか、これが今年のテルやで!」
課長は息を吹き返したように叫んだ。
それでも、苦しい展開は続く。
5回裏、伊原に代わってマウンドに上がった木下が、2アウトから粘れない。
パスボールで1点を失い、さらに内野安打で追加点。点差は5点に広がった。
「こういうとこやて」
課長は頭を抱える仕草をして、声を上げたが、その語気はいつもの怒号ではなく、どこか疲れたようにも聞こえた。
7回裏、新しくマウンドに上がったのはハートウィグ。
前回登板は四球を連発していたが、この日はあっさりと中日打線を三者凡退に抑えた。
「やっと……やな」
課長がぽつりと漏らした声に、少しだけ安堵が混じっていた。
歩幅の変化
9回表、ここまで投げ抜いた金丸に代わって、マウンドにはメヒアが上がる。
期待のテルはセカンドフライに打ち取られ、打席には今日フル出場した中川。
「今日の中川、全部の打席で必死さが伝わってきますね」
僕が言うと、「ああ、内容は全部ええで」と課長が返す。
中川のプロテクトガードのエンジカラーが、照明に反射して光って見えた。
あれは彼の母校、京都国際高校のカラーだろうか──そんなことを考えていたタイミングで、中川がまたしぶとくヒットを放った。
一打席ごとの執念。だけど、その後が続かず試合終了。
同一カード3連勝はならず。金丸にプロ初勝利を献上する形になった。
最終スコアは8-3。中日の完勝だった。
スタンドからはドラゴンズファンの歓声が響く。課長はゆっくりと立ち上がると、大きく伸びをして、ぽつりとつぶやいた。
「また明日や」
怒ってもいない、ふてくされてもいない。ただ、今日という長い試合を見届けた人間の声だった。
―――
駅までの帰り道、僕は何も言わずに課長の歩調に合わせて歩いた。
不思議と、それが自然にできた。
初めて一緒に来たときよりも、少しだけその歩幅が、僕にとってちょうどよく感じられた。
地下鉄の階段を降りながら、課長が振り返った。
「今度は勝つ試合を見たいもんやな」
「そうですね。でも……」
僕は一瞬、言葉を探した。
「今日も、よかったです」
課長は少しだけ驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「そうか。まあ、野球はそういうもんやからな」
電車が来るまでの短い時間、僕たちは黙って立っていた。でも、その沈黙は5月のときのような気まずさではなく、何かを共有したような、温かいものだった。
──課長が変わったのか、それとも僕が変わったのか。
その答えは、まだ分からない。
でも、分からないままでもいいのかもしれない。
大切なのは、また一緒に野球を見に来たいと思えることなのだから。
本日の試合結果
中日 8-3 阪神(バンテリンドーム)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | 安 | 失 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
阪神 | 0 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 7 | 1 |
中日 | 1 | 1 | 3 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | X | 8 | 12 | 0 |
勝利投手:金丸夢斗(1勝4敗)
敗戦投手:伊原陸人(5勝5敗)
本塁打
阪神:中川勇斗1号(2回表ソロ)、佐藤輝明29号(4回表ソロ)
中日:チェイビス2号(2回裏ソロ)
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