阪神はスコアレスで迎えた5回表、森下翔太の先制2ランで試合を動かす。先発デュプランティエが7回無失点の力投を見せ、リリーフ陣も完封リレー。ヤクルト打線を抑えきり、2−0で逃げ切った。
この日、外野席にいたのは、2ヶ月前に会社を辞めた元上司と、その誘いを断りきれずに来た女性。久々に再会した2人は、阪神の快勝を見届けながら、かつての“境界線”について静かに考えることになる。
果たして、誰が加害者で、誰が被害者だったのか――。
『ボーダー』〜阪神タイガース観戦記 2025年6月28日〜
12時少し前、JR代々木駅前。照り返しと湿気で、顔の下半分が溶けていくような感覚だった。
男を待っている。
そう自覚した瞬間、自分で笑った。
しかもその男は、2ヶ月前に会社を辞めた元上司。恋愛感情ゼロ、というかマイナスからのスタートだ。
2週間前、「神宮のチケットあるんやけど行く?」とLINEが来た。え?なぜ私?と思いながら、「予定見てみます」とだけ返して既読スルーしていたら、3分後に「もう取ったで!」と画像が送られてきた。
来るしかなくなったわけだ。
そして現れた近藤さんは、会社にいた頃より3倍濃くなってた。いろんな意味で。
白いショーツに、裸足で蛇柄のローファー。アル○ーニのロゴが金文字で主張する黒T。シルバーネックレスは思っていたより太く、香水はたぶん高級ブランドのものだけど、量が間違ってる。半径5mどころじゃない。なかなか強烈な香りが駅前に立ち込める。
そして何より、目が行くのは会わない間にまっ白になっている歯だった。
焼けた肌にまっ白な歯って、もはや街中の広告かってくらい目立ってた。
肩幅が異様に広く、小太りで、眉毛が異常に細い。会社で見るときはスーツとネクタイがすべてを誤魔化していたんだなと実感する。
髪は相変わらずねっとりとシチサンに分けられ、つやっと光っていた。
なぜか右手に「高そうなマイボトル」を持っていて、それもまたイタい。
「お?久しぶりやな」
そのひと言が、ぐいっとあの頃の空気を思い出させる。
うちの会社、株式会社フォルザンリンク。100人くらいのパッケージデザイン系の会社で、営業チームはほぼ体育会系だった。
私は新卒3年目で、近藤さんのチームにいた。
去年、総務が「コンプライアンス強化です」と設置した、“働くみんなの声”投書箱。ネーミングの気持ち悪さも含めて、正直、誰が使うんだろって思ってたあの箱に——
というのも、私はどんな発言をされてもあまり気にしないタイプだった。
口の悪いお爺ちゃんやお父さん、3人の兄という男性家族に囲まれて育ったせいか、聞き流すのがデフォルトだった。
きっかけは「ちょっと綺麗になった?」のひと言だったらしい。
私は言われたことない。「太った?」「最近化粧濃いなあ」なら、何度もある。いや、こっちはずっと“太った”のほう専門ですけど?って話。
言われすぎて、もはや麻痺してたのかもしれない。
でも、串田さんは、きっとそうじゃなかったんだ。
「俺、そんなん全然そんなつもりなかってんけどな」
暑い中歩きながら、近藤さんがぽつりと言う。
「でもな。総務に呼び出されて、“会社として看過できません”って言われて。何回か話し合いはしたんやけど……最後は、“自主退職という形でお願いします”ってなって。もう、居場所なくなったわ」
神宮に着いて、外野席へ。
席に着くと、近藤さんがニヤッとして言った。
「昨日の試合、見たか?あんな雨の中で逆転負けやで?」
「見ました。あのまま無効試合になってた方がよかったですよ」
「両翼とサードがなあ、これからの課題や。打つ方にも影響でたらかなわん」
「てか、もう7月ですけど、阪神って補強するんですかね?」
会話は自然だった。
会社にいた頃と同じテンポで、同じノリで。
私が他の若手よりも近藤さんと話せたのは、たぶん阪神が好きだという共通項だと思う。
いちいち真意を探ったり、裏を読んだりしない感じ。
試合は立ち上がりから、どちらに流れるか分からない展開だった。
1回表、阪神は1アウト1・2塁の先制機をつくるも、佐藤・大山が倒れ無得点。
「この立ち上がりでつかまえないと。もう」
近藤さんは早くも鼻息が荒い。
昨日の逆転負けが、まだ尾を引いているのかもしれない。
その裏、ヤクルトも先頭の並木が出塁し、あっという間に2塁まで進む。
神宮のあの独特な狭さと、湿気と熱気の中、2塁ランナーの存在が妙に怖く感じた。
それでも、我らのデュプランティエはそこからが良かった。
4回、先頭の佐藤がツーベースで出るも、ギアを上げた高橋の前に後続が倒れる。
近藤さんは照りつける太陽を一身に浴びながら、歯ぎしりしていた。
気温は30度をゆうに超えてる。暑いなんてもんじゃない。
そして5回表。
四球の近本を塁に置き、3番森下がヤクルト先発・高橋のストレートを完璧に捉えた。
打球は迷いなく、レフトスタンドの黄色い歓声に吸い込まれていく。
神宮の黄色がうねる。
近藤さんは目をカッと見開き、満足そうにうなずいた。
その横顔がなんだか子どもみたいで、私は思わず笑ってしまった。
7回裏、内山にヒットを許すも、続くオスナを2球で追い込み、三球目でセカンドゴロ。
中野→小幡→大山で流れるようなダブルプレー完成。
「この回大事やで」
……それは、こっちもわかってる。
8回、マウンドに上がった湯浅がしびれる場面で三振を奪ってピンチ脱出。
太陽はまだ意地悪だったけど、なぜか暑さが心地よくなっていた。
9回裏。
守護神・岩崎が粘る打者をなんとか3人でねじ伏せ、試合終了。
スコアは2−0。久しぶりの白星だった。
「いい日に来れたなあ」
近藤さんは汗ばんだ額を、周到に用意してきたウェットティッシュでぬぐいながら、こちらを見た。
私も、黙ってうなずいた。
その直後、彼が歯を見せて笑った。やっぱりまっ白だった。
私はつられて笑いながら、ふと思った。
この歯、会社辞めてからホワイトニングでも始めたのかな。
「攻める方向、そっち?」って、思わず心の中でツッコミを入れた。
一緒に笑ってはみたけれど、その白さだけが浮いてて。
「歯だけ独立してません?」って、心の中でツッコんだ。
串田さんが辞めたのは、近藤さんの発言が原因、ということになっていた。
近藤さんも辞めさせられた。
それって、どっちが“加害者”で誰が“被害者”だったんだろう。
私はただ、流してきただけかもしれない。
見過ごしてきた、というべきかもしれない。
でも、本当に、気づいてなかっただけで済まされるんだろうか。
何がハラスメントで、何がただの会話なのか。
どこに線を引けばいいのか。
大人の社会の境界線は、思っていたよりずっと曖昧だった。
神宮の外で、近藤さんが聞いてきた。
「お前、まだ会社おるんやな?」
「まあ、いますけど」
それ以上、うまく言えなかった。
あの騒動のことを、会社にいる自分からこれ以上、口にするのが、どうにも気まずかった。
だから、代わりにこう言った。
「あんまり歯、白くしすぎないほうがいいですよ」
言いながら、自分でも笑ってしまった。
こんな締めのセリフしか言えない自分が、悔しかった。
近藤さんは、まっ白な歯でまた笑った。
今度は少し、寂しそうに。
帰り道、私は思った。
あの人の言葉に、誰かが傷ついた。
そして、あの人もまた、誰かに線を引かれた。
じゃあ、私はどっちなんだろう。
加害者でも被害者でもない、境界線の上に立っていただけだったのかもしれない。
何がハラスメントで、何がただの会話なのか。
線を引くことは、思っていたよりずっと難しい。
それでも、この問いはまだ消えずにいる。
ただの会話と、誰かを傷つける言葉の境目。
私はいまも、境界線の上に立って答えを探している。
【今日のスコア】 ヤクルト0-2阪神 @神宮球場
コメント