2025年6月18日、甲子園で行われた阪神vsロッテの一戦。
阪神は連敗中の苦しい状況を吹き飛ばすような打線の爆発と、
先発・伊藤将司の好投で8−1の快勝を収めた。
だが、この日、スタンドに座っていたひとりの住職にとって、
勝敗よりも深く心に残ったのは──
祈りの先 〜阪神タイガース観戦記 2025年6月18日〜
蝉が鳴くにはまだ少し早い季節だけど、大阪・北摂の箕面の山々に囲まれた寺の境内には、すでに夏の気配が立ちこめていた。朝からぐんぐん気温は上がり、汗ばむ額をぬぐいながら、本堂の縁側を歩くたび、足の裏に木の温度がじとっと残る。
高橋久則、四十九歳。日蓮宗の中規模寺院の住職。読経の声は通るが、顔はくたびれている。頬の肉が少し落ち、細い肩を作務衣が包んでいる。京都にある仏教系の大学を卒業したのは三十年近く前。その卒業を見届けるように若くして父は他界し、以降、母と二人でこの寺を守ってきたが、時間が経った今でも、「あの人はちょっと抜けとる」と檀家に笑われる。
それにしても、今朝の読経だけは、誰にも見られなくてよかった。声に迷いがあった。久則は、心を乱していた。
「南無妙法蓮華経……なむ……妙……ほ……」
お経の節回しの裏で、もうひとつ別の音が脳内で鳴っていた。昨日の甲子園の試合結果・打撃成績、伸びていく連敗。あれやこれやと頭に浮かび、数珠を握る手が震えていた。祈ることで人の心を鎮めてきた自分が、いまは誰よりも、すがっていた。
「導く者がこんなんで、ええんやろか……」
小さく、誰にも聞こえない声が漏れた。
読経を終えて、ふうと息をついたとき、母が湯呑を持って現れた。
「今日、あんた甲子園行くん?」
「香田さんとな。誘われたし」
「なんべん誘われてもな、負けっぱなしやのに。もう七連敗やろ? あんた、法事で“勝ち負けに囚われない”言うてたん、自分やで?」
「……せやけど、檀家さんのつきあいやし」
「それは香田さんが檀家やからか、タイガース仲間やからか、どっちやろなぁ」
母は笑って奥へ下がった。返す言葉はなかった。
午後二時を回った頃、香田靖がやって来た。
「久ちゃん、今日は期待してええんか?」
シャツの袖を乱暴にまくりながら、顔の汗をハンドタオルで拭っている。檀家総代を務めるこの男も四十九。小柄で恰幅がよく、声がでかい。近所の鰻屋の三代目で、久則とは幼なじみだ。香田の鰻屋は繁盛していて久則も母を連れてたまに行く。
二人が憧れてきたタイガースの話になるのは幼い頃から変わらない。
「先発は伊藤やな。ええピッチャーやけど、打線がなあ……」
「まあまあ。今日は檀家の願掛けや。住職が連れてってくれて、負けたらこっちの信心が足りんかった思えるやろ?」
「住職をなんやと思ってんねん」
「仏様やとは思ってへんよ、ただの同志や」
そう言って笑う香田に、久則もつられて頬をゆるめた。
そのまま寺の本堂で急いで着替えを済ませた久則は、鏡に映った自分に首をかしげた。作務衣から着替えたユニフォームは「7」、今岡のもの。色あせた黄色が、なんだか頼りなく見える。腰にはタオルを挟み、ポケットには扇子。数珠は……どうするか迷ったが、持って行った。
阪急電車を乗り継ぎ、甲子園に着いたのは五時を過ぎた頃。風はない、空気は重い。今日の大阪は最高気温が30度を超え、スタンドのコンクリートから立ち上る熱気に足がじんわり焼かれ、汗が背中を伝った。
「蒸し風呂やな」
「いや、地獄や」
「ほな住職、今日も供養してくれますか?」
「誰のや。チーム全員分やったら三時間かかるで」
「大山のバットだけでもええわ。いっぺんお祓いした方がええんちゃう?」
「森下も佐藤も、先週から“無”の境地や。悟っとるんか?」
ふたりとも笑っていたけど、その笑いには汗のような粘り気があった。
心底苦しい。けど、来てしまう。信じてしまう。
スタメンが読み上げられ、拍手が起こる。
久則は、隣の香田に気づかれないように、静かに数珠を握った。
人前では説法をする身でありながら、何よりもすがりたい夜が、今日だった。
「ほんまに持ってきたんか、数珠まで……」
香田の声に驚いて顔を上げると、彼はうちわで扇ぎながら、ふっと笑った。
その笑い方が、昔とおんなじで、久則は思わず目を細めた。
伊藤がマウンドに立った一回表、早くも一死三塁のピンチが訪れた。甲子園全体がざわつく中、久則は香田から手渡された焼き鳥を手に取って、じっとプレートを見つめていた。
「よしよし、さあここからやで」
香田が口いっぱいに頬張りながら言った。伊藤は次の打者を打ち取って、そのまま事なきを得た。立ち上がりにありがちな乱れを見せず、むしろ落ち着いて見えた。頼りになる左腕が帰ってきたことが嬉しい。
三回表、ロッテの先頭打者友杉がヒットで出た。場内が緊張を含んだ空気に包まれる。だがキャッチャー坂本の肩が炸裂し、盗塁を阻止。さらに藤原にもヒットを許した伊藤だが牽制で藤原を刺し、ピンチは一転、拍手に変わった。
「ええやん。流れくるんちゃうか? なあ住職」
顔をぐっと近づけてくる香田に、久則はまっすぐ前を向いたまま答えなかった。数珠を握る手は、汗で湿りぱなしだ。
その裏。近本が出塁し、中野がきっちり送りバントを決めて一死三塁。森下に回ったところで、久則は口をつぐむ。打てていないクリーンナップ。その沈黙の時間の中、ライト前にしぶとく転がった打球が歓声に変わる。いつもの引っ張りではない、逆方向への食らいつくようなバッティングだった。
香田は立ち上がり、大きく手を叩いた。
「うわ、よう打ったわ森下!ええぞぉ!」
久則は数珠を力強く握りしめたまま心のなかでひとつ、息を吐いた。
五回裏。中野のタイムリーで1点を追加したあと、さらにロッテの先発、田中の暴投と四球でランナーがたまり、大山が初球を仕留めた。左中間へ転がるタイムリーで、スコアは3-0に。遊撃手のグラブをかすめて転がっていく打球は、先ほどの森下のヒットと同じく、確かに強い意志が宿っていたように見えた。
「これは今日こそいけるやろ。なあ住職!」
香田が久則の肩を揺さぶるように言ってくる。久則は追ってきたタオルで額の汗を拭きながら、口の端だけで答えた。
「欲を出したらあかん言うてるやろ、黙ってみとき」
六回表、ここまで粘ってきた伊藤が3連打を浴びて一死満塁。甲子園全体が息を止めた。犠牲フライで1点を返されると、香田は「嫌な予感するわぁ」と顔をしかめた。久則は数珠を両手で握りしめた。なじんだ数珠の感触を確かめながら祈るというより、自分を保つように。強く。
八回裏、2アウトから、近本、中野のタイムリーでスコアは5-1に。森下が右中間を割り、さらに2点。甲子園が揺れる。香田は隣席のカップルにまで話しかけはじめ、久則に背を向けていた。
そして――
主砲、佐藤が放った打球は、バックスクリーンへ一直線。満員の観客が立ち上がり、拳を振り上げる。
久則も、思わず立ち上がった。阪神ファンの誰もが望んでいた展開に目を見開き、数珠を振り回す。
ハッとして隣を見ると、香田がにやにや笑っていた。
「久ちゃん、欲まみれやんか」
笑って言う香田の顔は、いつもの檀家総代ではなく──
幼い頃から、ずっと隣にいた“同志”だった。
試合が終わっても拍手と歓声は鳴り止まない。
長い連敗が今日止まった。もちろん止めたのは阪神の選手たちだ。
見上げた甲子園の空は、群青色が広がっていた。
気づけば背中の汗も乾いていて、熱気の残るスタンドに、風が少しだけ流れていた。
香田はどこかへ電話をかけていた。
「ああ、勝ったで。やっとや。住職がな、数珠まで持ってきてくれてん」
久則は、静かに立ち上がった。数珠を握る手に込めた力がすっとほどけた。
勝ってよかった。心から、そう思っている。
けれど、もし今日も負けていたら──
あの本堂の縁側に立ち、檀家の前でまっすぐ読経ができただろうか。
不安を抱えたままでも、立ち続ける。
今日のタイガースがそうだったように。
七つの負けを越えて、それでも前を向いていたその姿に、
自分の足元にも、小さな光が射した気がした。
導く者が、それでも信じることをやめたら──
誰が、その先に灯をともすのか。
久則は、胸に数珠を当てたまま、スコアボードをゆっくりと見上げた。
「誰かの祈りで何かが変わるなら、わしは明日も、祈るしかないやろ」
【今日のスコア】
阪神タイガース 8 – 1 千葉ロッテ(甲子園)
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