朝、洗濯機の中でシャツがぐるぐる回るのを眺めながら、春代はぼんやりしていた。
ベランダの外、雲ひとつない空があまりにも澄んでいて、それがかえって、気持ちをどこにも置けなくさせていた。
「たまには、一人になってもええやん」
そう呟いて、自分の声に少し驚いた。
結婚して13年、ずっと「妻」としての日々を送ってきた。けれど、ここ2年、夫の宏との会話は少なく、笑い声のないリビングが夜ごとに冷えていく。
年始に始めたパートで、服を畳んだり、お客さんと話したりする日々は、思っていたより心地よかった。
人と関わるって、やっぱり好きなんやなと、心の奥がじんわりあたたかくなることもあった。
そして今日、久しぶりの休みだった。
昼過ぎの広島駅前、少し早い春の風がコートの裾を揺らす。駅の売店で、たこ飯弁当とお茶を買って、マツダスタジアムに向かった。
阪神戦を一人で観に来るなんて、何年ぶりやろう。大学の頃は毎週のように甲子園通ってたのに。
外野席は、想像よりずっと賑やかだった。
応援団の声が鳴り響いて、黄色と黒のフラッグが風にたなびく。知らん人たちが、同じタイガースのユニフォームを着て、一緒に歌ってる。
「なんか……ええな」
そう思った瞬間、初回やった。
ライトスタンドがどよめく。
「いった!テルや!」
阪神の3番・佐藤輝明が放った打球が、高く、高く、ライトスタンドに吸い込まれた。
手を挙げる間もなく、涙がじわりとにじんだ。
なんで泣いてるんやろ。
ただのホームランやのに。いや、「ただの」やない。
この一発で、なんか胸の奥でしゅわっとした何かが弾けた。
8回。追加点の場面も、妙に印象に残っている。
森下が四球で出て、大山がセンターにタイムリー。
そして続けて、前川がライトへヒットを打った。2アウトからの攻撃。
粘って、繋いで、打って。気づけば、スタンドの誰もが立ち上がって、手を叩いていた。
「こんな野球、観たかったなぁ…」
思わず呟いて、後悔した。宏にも、こんな風に素直になれたらよかったのかもしれん。
けど、今の私は、こうして一人で球場に来て、風に吹かれて、声を出して笑ってる。
それだけで、なんやろう。生きてる、って感じがする。
9回、最後の打者。マウンドにいたのは、守護神・岩崎だった。
けれど、球場全体の拍手は、その少し前、8回2/3まで投げ抜いた村上に向けられているように思えた。
「ようやったなあ、ほんまに…」
春代は心の中でそう呟いた。昨年、何度も悔しそうにマウンドを降りていた姿が、ふとよみがえった。
でも今日は違った。背番号41の後ろ姿には、まるで長い冬を越えた誰かのような、凛とした光が宿っていた。
見逃し三振で試合が決まった瞬間、スタンドが沸騰するように湧いた。
春代も、思わず手を叩きながら、隣の見知らぬ男の子とハイタッチした。
照れ笑いしながら、でも、なんか嬉しくてたまらなかった。
帰り道、広島駅前の空はもう薄暗くなっていた。
ビルの窓に反射した夕焼けが、遠くの雲をほんのり染めている。
もう一度、ちゃんと向き合ってみようかな。
そう思った。
夫と、じゃなくて、「私」という人間をもう一度、自分の目で見てみようということかもしれない。
大好きなタイガースのように、負けた日々を抱えたままでも、また立てるかもしれん。
そう思わせてくれた、3月の終わりの試合だった。
【今日のスコア】
2025年3月28日(金)@マツダスタジアム
阪神 4 – 0 広島(勝利:村上、HR:佐藤輝)
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